なでかたジョンの雑記

元中国語学専攻の元同人作家兼元踊り手の、元も子もないブログです。

どうしても西夏文字を諦めきれないので自分で勉強する②

ごきげんよう。なでかたジョンです。

思うところがあってタイトルを変えました。前回の続きです。

『掌中珠』とは。

 まず、これもwikipediaを漁ればわかることですが、『掌中珠』は1907~1909年にかけてピョートル・コズロフを隊長とする探検隊がカラ・ホト遺跡から発掘した文物の中に含まれていたのを、当時のサンクトペテルブルク大学の漢学副教授だったアレクセイ・イヴァノヴィチ・イヴァノフが1909年に「発見」したという経緯があります。

カラ・ホト - Wikipedia

この辺のエピソードが中々面白いので聶 2014から引用させてもらいます。

……(前略)伊凤阁日复一日地翻检着那些700年前的故纸,有的沾满了灰土,有的已经受潮发霉……这天他忽然眼前一亮——躺在纸堆下面的正是大家幻想中的字典吗?意外的收获让他情不自禁地大喊着科兹洛夫的名字:“彼得・库兹米奇!我在您的收集品里发现了个东西!我找到了一本字典!能帮我们看懂700卷书!”(聶 2014, p.3~4.)

(……(前略)イヴァノフは来る日も来る日も700年前のボロ紙を点検していた。あるものは土埃に塗れ、またあるものは湿気って黴を生じていた……この日彼は目の前が突然明るくなる思いをした――積み重なったボロ紙の山の下にあるのは、まさしく皆の幻想の産物だったはずの辞典ではなかろうか。思わぬ収穫に彼は思わずコズロフの名を叫んだ。「ピョートル・クズミチ!私は貴殿の収集品の中にあるものを見つけたぞ!私は辞書を探し出したのだ!これで700巻の書物を読むことができる!」)

歴史的発見の喜びがありありと伝わってきますね。楽しそう(こなみ)

この発見が同年にすぐさま学術誌で報告されると一気に世界中の東アジア研究者から注目を集めました。その中には京都志那学、日本における敦煌学の創始者の一人である狩野直喜もおり、彼は実際にサンクトペテルブルクに赴いて現地から日本の学友に『掌中珠』について知らせる手紙を書き、これが日本における西夏学の端と見なされているそうです(聶 2014, p.5.)。

しかしイヴァノフはこの『掌中珠』について、書き方の体裁なんかを簡単に説明するともうそれ以上は研究しなくなってしまったようですね。そして1937年にはソ連の「大粛清」によって処刑されてしまいます。『掌中珠』の全文が公開されたのが発見から70年以上後になったことも踏まえると、やや勿体無い気がしますね。

解題

 『番漢合時掌中珠』という書籍の名前の由来を見ていきます。

番:タングート族の自称

時:ここでは「時間」ではなく、『詩経・大雅・公劉』「于言言、于語語(ここでぺちゃくちゃとおしゃべりをする)」における用法のように「ここ」と読むべきだそうです。

掌中珠:今で言うところのハンドブック。当時中国北西地区では教科書の名前に「砕金」とか「随身宝」とかつけるのが流行ってたらしいので、「小さくてもめちゃくちゃ価値ありまっせ」というのをウリにしていたみたいです(聶 2014, p.6.)。

以上をまとめると、『番漢合時掌中珠』は「西夏語と漢語がこの中でひとつにまとまったハンドブック」というタイトルだと考えるのがよさそうです。

 

では今回はこの辺で。ごきげんよう