なでかたジョンの雑記

元中国語学専攻の元同人作家兼元踊り手の、元も子もないブログです。

どうしても西夏文字を諦めきれないので自分で勉強する③

ごきげんよう。なでかたジョンです。

買ったばかりのViveを少し触ってみました。た、楽しすぎる・・・!

VR世界凄すぎて現実世界がどうでもよくなりそうです。

部屋が狭すぎて少し動くと何かにぶつかるのが目下の悩みです。少しずつお片付けしていこうな・・・。

それでは、前回の続きです。

『掌中珠』には何が書かれているのか

まず、『掌中珠』の最初に漢文と西夏語で書かれた序文があるので、読んでみましょう。

   凡君子者,为*1物岂可忘了?故为尝不学;为己亦不绝物*2,故未尝不教*3。学则以智成己*4,欲袭古迹;教则以仁利物*5,以救今时。兼番汉文字者,论未则殊,考本则同。何则*6?先圣后圣,其揆未尝不一故也*7。然则今时人者,番汉语言可以俱备。不学番言则岂和番人之众?不会汉语,则岂入汉人之数*8?番有智者,汉人不敬;汉有贤者,番人不崇。若此者,由语言不通故也。如此则有*9逆前言。故愚稍*10学番汉文字,曷敢默而弗言?不避惭怍,准三才,集成番汉语节略一本,言音分辨,语句照然。言音未切,教者能整;语句虽俗,学人易会。号为“合时掌中珠”。贤哲睹斯,幸莫哂焉。

  时乾祐庚戌二十一年月日,骨勒茂才谨序。 

(凡そ君子というものは、何事かを学んだら決して忘れない。(中略)「学」というのは知恵によって自分を完成させ、古くからの遺産を継承したいと欲することである。「教」というのは仁の心をもって万物から利益を得、それによって現在の状態を正しいものにすることである。西夏文字と漢字を兼ね備えた書物は、主張が月並みであったり、そもそも考証がの猿真似であったりしている。何故か。それは昔の聖人と後の時代の聖人が、尺度を共有できていないからである。それならば今の時代の者は、西夏語と漢語を両方身に付けることができる。西夏語を学ばなければ、どうして西夏人の人々と打ち解けることができるだろうか。漢語を理解しなければ、どうして漢人の数に入ることができるだろうか。西夏人に智者がいても漢人はそれを敬わず、漢人に賢者がいても西夏人はそれを尊ばない。このような状況は、言語が通じないことが原因である。であるならば、それに背くことである。故に私はすでに西夏文字と漢字を学んでいながら、どうして敢えて黙して語らないことがあろうか。恥を恐れず、「三才」に倣い、西夏語と漢語を集めて一冊の概説書とし、音は弁別され、語は明らかになった。音は切り離されていないが、教える者が整理できる。語句は大衆的だが、学習者が理解しやすい。これを『合時掌中珠』と呼ぶ。賢人がこれを見れば、幸いにも嘲笑うことはないだろう。) 

北宋期の漢文なので、完了の「了」があったり動補構造が見られたり、ところどころ現代中国語と似ていますね(いうて漢語史そんなに詳しくない)。

ていうかさらっと「読んでみましょう」って言ったけど普通に読めない箇所あって学士号捨てるか~wってなりました。

内容面で見ると、骨勒茂才のような街の先生レベルの人の中にも漢人との相互理解を深めるのが大切だという考えがあったというのが興味深いです*11

学習に便利なように日常語彙を多く集めたというのも好感が持てますね。「三才」という言葉が出てきますが、これは『易経』に端を発する概念で、ざっくり言うと天・地・人が世界を構成する三大要素だという考えです。『掌中珠』はこれに従って言葉を意味によって「天篇」(天体・気象・暦)、「地篇」(山川・鉱物・動植物)、「人篇」(身体部位・日常生活用語)の3篇に分けて収録しています。それぞれの篇はさらに3章に分けられ、全部で9章から成っています。

それまでの中国において、辞書とはとりもなおさず「国語辞書」だったため、骨勒茂才の対訳辞書という取り組みはある種の革新でした。そこで骨勒茂才はなるべく紙面を節約しつつ2つの言語の橋渡しをするための画期的な手法を編み出します。まず2行目に見出しとなる西夏語を書き、1行目に漢語音訳を書きます。そして3行目に見出し語と対応する漢語を書き、最後に4行目にその西夏語音訳を書きます。こうすることで、見出し語が2文字なら1語について2字×4行(=8字)で見出し語・意味・2言語の注音を表すことができるようになるのです!すごーい!この手法は清朝期に作られたチベット語・漢語対訳辞書にも応用されました。

骨勒茂才は実際の教育の現場にいたからこそ、漢人が「和番人之众」し、番人が「入汉人之数」するという崇高な目的へ到達するための言語教育の現実的な方策を打ち出すことができたのかもしれませんね。

 

なんか人生の教訓っぽいものを得たところで、今日はここまで。

序文を読むのにかなりの時間を費やしてしまいましたが、きっと無駄ではないでしょう。勉強不足を痛感できたことだし。

それでは、ごきげんよう

*1:この「爲」が中々に厄介。「~として」と前置詞に読むか、「学ぶ」という動詞に読むか。「爲」を「學」に読むのは論語述而に用例があります。その場合「爲」と「學」をどういう意図で使い分けているかが問題になりますが、とりあえず「學」の意味で読んでおきます。

*2:『漢語大詞典(以下『大』)』「谓断绝人事交往。」

*3:この一文わからないのでスルー。「故」と「爲」はマジで難しいんすわ…

*4:「成己」という句は『礼記・中庸第二十五章』に出てきます。“诚者,非自成己而已也,所以成物也。成己也;成物,也。性之德也,合内外之道也。” 孔頴達の疏(≒解説)に“言人有至诚,非但自成就己身而已,又能成就外物。”とあります

*5:『大』「益于万物。(万物から利益を得る)」

*6:「なんゾヤ」と訓読する。次文で理由の説明がなされる

*7:典拠は『孟子・離婁下』「先圣后圣,其揆一也。」。「揆」は「尺度、基準」。日本の農民による武力行使である「一揆」はここに由来するんですね~(知見)

*8:「数」には色々な意味があって悩ましいところですが、仏教経典に「入大乗正定之聚」とか「入正定聚之数」とかいう文言(私は仏教はさっぱりなので興味のある方はここを参照してください。唐代の仏僧の言葉だそうなので、ここに引用されていても不自然ではないでしょう)があるそうなので、シンプルに「かず」と読んで良さそうです。

*9:この「有」が割と謎。有+VPで「~する人がいる」みたいな訳ってできたっけ?と思って調べてみたら、現代中国語についての論文はありました(

http://klibredb.lib.kanagawa-u.ac.jp/dspace/bitstream/10487/6007/1/ji169_y07.pdf

)ただ、この用法にどれほど生産性があるのかってのが問題ですね。

*10:「稍」は「やや、少し」と訳すことが多いですが、ここでは「すでに」という意味で解釈しようと思います。

*11:(聶 2014, p.11)では「このような民族大団結の観念が1000年ほど前の一般人に存在していた」と書かれていますが、中原の人が言うと若干イデオロギー的なものを感じますね...w