読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

なでかたジョンの雑記

中国語学専攻の大学生兼同人作家兼踊り手の、何でもありのブログです。

敢えて今、姫プリを考える。(1)「夢についてはるはるが教えてくれてたこと」

f:id:Nadekata:20160502224059j:plain

第50話より 「会いたいと...」「心から望めば」

 

お久しぶりです。ごきげんよう、なでかたジョンです。

 

前回の投稿から1年以上経ってしまいました。

卒論を書いたり、院試を受けたり、院試に合格したり、卒業単位が足りてなくて留年が決定したり、アイカツ本を出したり、そんな感じで1年過ごしてました。

 

それはさておき、このブログで「姫プリを1年間ちゃんと追って、最終的にこの作品の価値を評価しよう」と宣言したのを、ようやくこのタイミングで回収しに来ました(当時、略称は「プリプリ」で貫き通す!と言っていましたが、やっぱり語呂の良さには勝てなかったよ・・・)。

 

しかし、なぜ今なのか。なぜ魔法つかいプリキュアが始まって3ヶ月が経とうとしている今なのか。『姫プリ』ロストに終止符を打つためか。答えは簡単。

 

4月の頭にようやく姫プリ最終回まで観終わったからです。

 

アニメ一本観終わったので感想を書く。非常にシンプルな行動原理です。

しかし、(もし前回までのブログを読んで続きを楽しみにしてくださった方がいたのなら)月並みな感想を並べ立てても申し訳がたたないので、1年前に提起した問題を回収しながら、また新たに気づいた問題にも触れながら、『姫プリ』という作品の意義や価値を再び考えていきたいと思います(そのためタイトルの中に不穏な数字が鎮座しています)。

(過去記事読んだことない人は右のトラックバック辿ってお読みになっていただくと、話が理解しやすくなるかと思います。たまにわかりやすさを意識しすぎて逆に見づらくなっているような部分もありますが、若気の至りということでお許し下さい。赤文字ってちょっとうるさいよね)

 

前回のあらすじ

1年ぶりに記事を書くにあたって、去年の記事を読み返してみたんですが、なかなか容赦無いこと書いてましたね。とりあえず、『姫プリ』という作品の大枠に関することで言うと、

 

・キャラデザ、モチーフの適切性について(主にジェンダーの観点から)

・「夢」というテーマの有効性について

プリキュアとして闘うことの意義について

プリキュア vs ディスダークという対立構造の妥当性について

 

みたいな感じだったと思います。今となってみると、「良いところを突いていたなぁ(熱い自画自賛)」と思うものと「う~んそれはどうだろう」と思うものがあるような感じがします。これらについても徐々に回収していこうと思います。

 

最終回まで観てわかったこと、わからないこと

まだ1周しかしていないので、朧気な記憶を頼りに(とは言っても一応記事を書くにあたってある程度考えは整理していますが)軽くいくつかのテーマを取り上げようと思います。

 

①はるはるの夢=「プリンセス」について

はっきり言って完全にやられました。そう言う他ありません。

僕は初めの時点で、ずっとはるはるは本気で「童話のプリンセス」になるものだと思っていました(実際はるはる自身も最初はそのつもりでいたんだと思います)。それに対して僕は「血統がどうだ」とか「婚姻がどうだ」とか「承認がどうだ」とか突っ込んでいたわけですが、どうでしょう。あれよあれよという間に原作がそれらを回収し、ばっさばっさと否定していくではありませんか(ex. トワイライト戦)! そして最終的にはるはるが目指すプリンセス像は「女性(≒人間)としての完成」に帰着したのです。僕は脱帽しました。この一連の構成に関しては手放しで賞賛して良いと思います。田中仁さんのお仕事なのでしょうか(どの役職がどの作業に携わっているかイマイチ把握できていない)。

f:id:Nadekata:20160502215910j:plain

第50話より 絶望は消せない

 

①'はるはるが夢を転換させたことの意味について

はるはるの夢が上述のような転換を経験したのなら、次にその転換点がどこにあったかということを考えようと思ったのですが、その間にこの「転換」が持つ意味について思うところが出てきたのでテーマを変えました。結論から述べると、『姫プリ』50話を通してはるはるの夢は「花のプリンセス≒グランプリンセス」という大きな物語から、その挫折によって「女性≒人間としての完成」という小さな物語に収束(決してネガティブな意味ではない)していったという解釈です。順番に説明していきます。

 

(a)転換の経緯

はるはるの夢が作中で経験した挫折は大きく2つあると思います。1つはトワイライトからの「血統がなければプリンセスにはなれない」(第18話)という否定、もう1つはプリンスであるカナタからの「グランプリンセスになんかなるな」(第38話)という否定(ある意味で拒絶)です。これらの否定によって、原義通りの意味でのプリンセスになることは不可能であるという現実を突きつけられたはるはるは絶望してしまったのでした。

 

(b)転換の意義

個人にとっての夢というのは、自らの人生にとっての指針を与える「大きな物語」でした。「大きな物語」というのは、道徳とか歴史とか、近代において社会全体で共有されるべきと信じられていた価値規範を指す言葉です( ↓ここにあるように、もともとはフランスの哲学者ジャン・フランソワ・リオタールが『ポストモダンの条件』で提唱した、科学の領域における概念だったんですね。日本では大塚英志の『物語消費論』が有名じゃないかと思います。批評の世界では割と手垢にまみれた表現のような気がします)。

「大きな物語」の終焉 | 現代美術用語辞典ver.2.0

子供は将来の夢を持つのが良いとされ、今だに学校や家庭で度々自分の夢を語らされます(僕も今だに親から「お前は将来何になりたいんだ」と度々訊かれます)。はるはるの「花のプリンセスになりたい」という夢も、そうした価値観の中で生成された側面があることは押さえておくべきです。こうした夢はしばしばその人のアイデンティティの根幹を形成するものとなる(例えば、自分のことを説明するのに「○○志望」という言い方をするように)のですが、それ故にその夢が挫折を迎えることが自らのアイデンティティの危機に直結してしまいます。これが第38話から第39話にかけてのはるはるです。

しかしポストモダンと呼ばれる近代以降の社会では、そうした社会全体に共有されるべきとされてきた価値観に対して人々が懐疑的になります。「夢があるから偉いのか」「わざわざ1つの夢に絞らなくてもいいじゃない」という意見が普通に出てくるようになります。そうしたことを踏まえて、僕は1年前に「夢を諦めるということも描くべきなのではないか」という発言をしたのですが、最終回まで見終えたときは、結局そうしたことには言及されずじまいだったと感じて少しがっかりしていました。

しかし、実際ははるはるは大きな挫折を経験して自らの夢を転換していたのでした。最終回のラストで成長したはるはるが映った段階で、なんとなく「はるはるは立派に初志貫徹した」と思い込んでいたのは迂闊でした。「そんなことわかってて観てたわ」とお思いになる人も多いことかと思いますが。

転換によってはるはるが新たに手にした夢とは、「私だけのプリンセス」になること、つまり「立派な人(女性、母親)になること」でした。これは少し考えれば「え、それって夢なの?」という疑問が湧いてくるのは当然のことだと思います。キング牧師がかの有名な演説で "I have a dream." と言ったあの「夢」とはだいぶ性質の違う、甚だ内面的なものですから。

しかし、このことにこそ『姫プリ』の大きな功績があるのではないか、と考えました。それはつまり、「夢を持たなくても良い」ということの提示です。こう言うと「???」と思われるかもしれませんが、はるはるの最終的な夢が一般的な「夢」とは種類を異にすることについては今しがた確認した通りです。ここにおいて、「『姫プリ』世界における『夢』という言葉には『希望』程度の意味しか持たないものもある」という読み替えを導入する必要があると思います。そして、最終的にはるはるが選択したのは、「夢」を捨てて、ただ人として「強く、優しく、美しく」あろうとすることでした。これは、人生というものをある特定の目標に向かって邁進する一本のレール(大きな物語)に見立てるのとは違い、自分が未来においてどうなっているかわからないという可能性の多様性を受け入れた上で、しかしどんな状況下においても「強く、優しく、美し」い自分であろうとする決意であり、自己という存在を肩書きを表す言葉で代替することに対する決別(「私はあくまでも私であり、それ以外の何者でもない。」)という意味で、極めて個人的な「小さな物語」と言えるのではないでしょうか。

f:id:Nadekata:20160502223522j:plain

第18話より 「私にも…私だけが目指せるプリンセスがあるかもしれないって思ったの!!」

 

プリキュアシリーズに登場するキャラクターで、自分で掲げた夢を、挫折を味わいながらも物語の最後まで貫き通したケースは沢山見られましたが、それを実現することが不可能な場合に無理に追求せず、「夢」が無くとも強く生きていこうとするキャラクター像というのは今まで他に類を見ないのではないでしょうか(プリキュアシリーズに限らず、他の女児向けアニメでももしかしたらいないかもしれません。何か思いつく方は是非教えてください)。これが正しければ、『姫プリ』は女児アニメでありながら、ポストモダンにおける実存をある種の形で我々に提示した唯一の作品と評価することができ、それによってこの作品の価値を大人の視聴に耐えうる名作として胸を張って喧伝することができるようになるのではないかと思います。

 

長くなってしまったので、今回は取り敢えずここで切っておきたいと思います。コメント、批判大歓迎です(記事と関係ないコメントが表示されないように一応承認制にしてありますが、記事に関してのコメントである限りは基本的にすべて反映させていただきます)。それではごきげんよう。