第3回:プリキュア=精神科医!?姫プリにおける「夢」とは?
はじめに
ごきげんよう。なでかたジョンです。
読者の方からのコメントを頂いたことによって、4本もプリプリの話題でもってます。
しかし、改めて前回のコメント反映の記事を読み直すに当たって、若干本来の目的を見失っている感があったので、この記事で初めてここを訪れる人のためにも、改めてこのブログにおける作品批評のスタンスを確認しておきます。それは、
「作品の設定・世界観に反映される、大人たちの思想・価値観を問題にする」
つまり、設定・世界観にどういう意味があるのかを考える。
(裏テーマとして、「今まで『子供向けだから』と許容してきたことを問い直す」)
(たとえば、こういう「自己犠牲の精神」を描くことが子どもたちにどのような意味を持つか。)
というものです。そしてその目的は、
「キャラクターが何故そのように行動しなければいけないのか」
「なぜそのようなストーリー展開にならざるを得ないのか」
という作品のシステム上の制約を把握することで、キャラクター・作品双方への理解、そして愛を深めること。
(決して「悪」だと決めつけない。「問題児ほど可愛い」ようなもの)
※こういうスタンスで議論を進めていくので、「あくまでも娯楽としてプリキュアを楽しみたい」という方は「ふーん、まあそういう考えもあるかもね」程度に思っていただいて構いません。また、こうした議論は「プリプリが面白い」ことを何ら否定するものではありません。
(第2話お気に入りのシーン。言うまでもなく、プリキュアは今作も面白いです)
いやしかし、キャッチーなタイトルに誘われて足を運んだのに前置きが長いなんてことになったら、詐欺呼ばわりされかねません。事務手続きは手短に済ませて、本題へ入っていきましょう。
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前回までの流れ
さて、どういう文脈だったかというと、「どうなるGO!プリンセスプリキュア」に対する読者の方からのコメントに答えていく中で、一つだけ保留にしたことがありました。
それは、
「夢」というテーマ設定が適切か否か
という問題でしたね。
で、僕の結論としては、
テーマそのものが不適切であるとは言えないが、「夢」を語る上で重要なポイントが今後も描かれないのだとしたら、それは不適切である
というものであるわけです。「夢」を語る上で重要なポイントとは、
・一度夢を諦めてしまっても、違う道で新しい夢を追い求めることができるのか
・夢を叶える方法はただ一通りだけなのか
という二点だと考えています。
では、以下に僕が批判する必要性を感じる理由として、「夢」というテーマ設定が抱える問題を見ていきましょう。それは、今作に対して我々視聴者がなんとなく抱く不自然さに対する感覚を説明するものになりうると考えます。僕がこの議論でやろうとすることの大体の流れはこんな感じです。
これからの流れ
①現代において、皆がただ一つの方法で夢を追い求めようとするのは無理がある…将来に対する見通し、社会制度の面で
⇒②現段階で今作はそうした事実に配慮できていない
…(a)モブキャラの側、(b)プリキュアの側の両方で、ドロップアウトした人への救済、夢を実現する方法の多様性が描かれていない
⇒③こうしたことを認識した上で、キャラクター・作品の成長を見守るとともに、我々も同じテーマについて自分なりに考えていこう
更に、「で、結局君は何がやりたいの?」という問いには、
いままで何となく見過ごされてきた違和感を、ちゃんと言葉にして考え、その上で作品とどう向き合っていくか考えていこう。
という建設的な提案であると答えます。
では、実際の議論に入っていくとしましょう。
キーワード:排除と包摂(≒挫折と救済)、誠実さ、プリキュアの存在意義、承認、「所詮子供向け」
(続きここから)
「夢」というテーマは適切か
まず、前回の記事で僕がどういう言い方をしたか、軽く触れておきます。
>夢をテーマにしたことは、悪いことじゃないと思います。「自分にしかできない何かを成し遂げる」って、確かにとっても難しい。だけど、それを目指すことが悪いとは思えないし、「頑張れ」って言ってあげられる大人だって居てもいいと思う。
「夢を目指すことは悪いことじゃない」というのは、僕だけでなく多くの人に共感されることだと思いますが、僕はこの作品において「夢」がテーマであることはあまり適当ではないと考えています(僕は善悪の二元論にはあまり意味を見出しません)。
それは、そもそも「夢」というものが、少なくとも現代社会においては非常にリスキーかつデリケートな問題であるからです。
①誰もが夢を叶えられるのか?
・前の記事でも触れましたが、今の時代は「その道」で生き残ることが非常に困難になっている(挫折を経験しやすい)という事実があります。それは、学問、文化、技術が急速に発展しているからです。「みんなができること」のレベルが高くなればなるほど、そこから頭一つ抜け出ることが難しくなっていくのです。そのため、いろんな世界で「プロになることは簡単でも、プロとして成功を収めることは難しい」と言われるようになっているのです(例えば、プロ漫画家よりも稼げる同人作家とか)。
こうしたことを考えると、
夢を叶える方法は必ずしも一通りではない
ということもまた、「夢」を語る上で大事な要素だと言えると思います。
・さらに、今の時代では、そうした形で挫折を経験しやすくなっているにもかかわらず、夢半ばで敗れた人に救いの手が差し伸べられていないという事実もあります。例えば、漫画家・声優になることを目指して高卒で専門学校に入るも、才能が開花せずに諦めてしまった人が、現在どのような生活を送っているか、想像してみてください。(「それなりに幸せだろ」とか「失敗だと決め付けるな」とかいう反論は次元が違います。あなたが社会的に「勝ち組」であるならば尚更です)
夢を叶えることが難しくなって、志半ばで諦めてしまった人たちを、基本的にこの社会は「自己責任」という言葉で冷たくあしらいます。(本当ならば、「ニート」等の問題は自己責任以上に社会システムの不備の問題なのです)
であるならば、「夢を追い続けろ」「夢を諦めるな」という言葉は、そこからこぼれ落ちてしまった人(排除)を救済する仕組み(包摂)がちゃんと整っている上で投げかけられなければならないと思います。でなければ「無責任」だと言われても仕方のない事だと考えます。
②「夢」を語らせる側の責任感
で、僕としては、この「不可抗力によって、あるいは自分で限界を感じたことによって、夢を追いかけるコースから脱落してしまった人達」のこと、そして「夢を叶える方法は一つではない」ということをどのくらい配慮した作りになるかが非常に疑問なわけです。
(a)モブキャラの側
まずは、我々一般人=モブキャラの側から考えようと思いますが、結論から言うと、論外です。つまり、モブキャラたちの「夢」は、我々が持つ「夢」とは全く性質が違うのです。なぜそのように言えるのでしょうか。
現段階では、モブキャラたちの夢は「得体のしれない存在」によって「どんな夢も叶わない」という絶望を突きつけられるも、これまたプリキュアという「得体のしれない存在」がそれを打破してくれるという構図の中に置かれています。そのため結果だけ見ると、モブキャラたちにとっては何も起こっていません。まるで、「そもそも夢が叶わないことなどありえない」とでも言うかのように。
これだけ取り出してみると、「ドラえもんが助けてくれると思った」に似たものを感じます。恐らくここに違和感を感じた人は多いのではないでしょうか。
夢というのは基本的に個人の自己実現に関わる事柄です。壁にぶつかった時には、誰かの手を借りつつも、最終的には自分の力で切り開いていくものだろうと思います。
しかし、今作の中でモブキャラ=我々一般人の夢がこのように、「何か得体の知れないものによってその可能性を全て封印される」ように描かれていること、さらに言えば、「夢の実現は個人の問題ではない」かのように描かれていることを、どう評価すればいいのでしょうか。
これでは「プリキュアがモブキャラの『夢の扉』を開く」=「自分の力で夢を叶えようとするのを第三者が手助けする」というふうに解釈することができないので、それが何を意味しているのかわかりません(考えられる解釈としては、「うつ病の治療」くらいでしょうか。これなら、「こころ」という人間が認識できないものによって、「夢」が奪われるという仕組みとして説明できます)。
(うつ病患者(?))
そのため、プリキュアが闘うことで子供たちに何を伝えたいのかというメッセージも不鮮明ですし、なんだったらプリキュアの作品における存在意義もよくわかりません。
(「うつ病モデル」で言えば、プリキュアは精神科医とか臨床心理士でしょうか。もっとも、こうしたモデルはプリキュアにおける怪物が人間の「心の病」としての性格を持つようになったハートキャッチの時代からずっと言われていることかもしれませんが。それにしても、子どもが憧れを抱いて「なろうとする(同一化する)」対象が精神科医とは、なんとも「夢」のない話です。あ、僕は精神科医・斎藤環のファンですよ。あしからず)
(精神科医(?))
(治療(?))
こうした行き詰まりは、そもそも「夢」というものが「こころ」や「愛」や「幸せ」と違って記述可能、交換可能である、というところにあるのではないでしょうか。そうであるが故に、精神病を患うくらいのことがないと、「夢を語れない」という現象は起こりえないのです。
(b)プリキュアにおいて
では、プリキュアの側ではどうでしょうか。これは現段階では「はるか=キュアフローラ」について論じることになりますが、僕は「はるか」の方でも「キュアフローラ」の方でも、やはり難しいと考えます。
・まず、「はるか」の側、つまり「プリンセスになる夢」の方ですが、なぜ難しいかというと、結ばれるべきプリンスがカナタ一人以外に考えられず、そしてそのカナタが今いないからです。どういうことでしょうか。
前半部分は問題ないかと思います。プリンスが一つしかしないということは、彼と結ばれる以外に夢を叶える方法がないということです。
後半部分はどうでしょう。これは第2回で触れましたが、「プリンセスになる」というのは、最終的には「承認の問題」、つまり、「プリンスに選ばれるか」の問題になるのです。承認が最終目標であるということは、そこで描かれ得る挫折は「身体的アピール」か「精神的アピール」(いわゆる「自分磨き」)の問題に帰結します。
しかも、プリンスとなるべきカナタはそれこそ遠く彼方にいるわけです。すなわち、アピールすべき特定の相手が初めから目の前にいないのです。
そうなると、問題は非常に内面的なもの(いかに自分を磨くか)、しかもそれは「他人の目を意識したもの」にならざるを得ません。ここにおいて、挫折は劣等感(他者から認められないのではないかという不安)となって表現されるでしょう。
よって、「はるか」が夢を諦めることになるとしたら、それは自分の「こころ」や「からだ」を否定することになります。個人的にはそういう女児アニメがあってもいいと思いますが、世間が皆そうだとは思えないので、現実的ではないでしょう。
・もう一つの方はというと、こちらは「カナタを助け、ホープキングダムを救う」というプリキュアとしての「夢=使命」です(この時点で「夢」であることすら怪しいのですが)。こちらはストーリー上の「お約束」という点で、やはり難しいと思います。
「挫折」程度のものなら、必ず描かれるでしょう。しかし、それはあくまでも乗り越えられるべき試練としてのみ描かれることができるものです。最後には必ずプリキュアが勝利して終わらなければならないのですから。その意味では、夢からの完全なドロップアウトとしての「排除」には到らないでしょう。
「排除と包摂(≒挫折と救済)」に誠実に向き合うならば、「夢を一途に追い求めて成功を収める例」と「夢を途中で諦めてしまったけれども、別の道で成功を収めて結局は幸せを手にする例」の両方を扱わなければならないというのが僕の考えです。
(c)結論
さて、以上(a),(b)の議論より、少なくとも現段階において、今作が「排除と包摂」、「夢を実現する方法の多様性」に配慮した上で「夢」を前面に押し出しているわけではないという結論が導き出されるわけです。そしてこの意味において、今作で「夢」が語られることが、ある種の子供だましであると言わざるを得ません。
では、プリキュア制作陣のそうした無責任さを暴いて満足したかというと、当然そんなことはありません。むしろ問題はこれからです。というのも、これは制作陣だけの問題ではなく、こういった違和感を「子供向けだから」と見過ごしてきた我々の問題でもあるのですから。また、最初に申し上げたように、こうした矛盾を洗い出すのは、それが最終的にキャラクター・作品・シリーズへの深い理解と愛に繋がるという確信があってのことです。これから先は、このような限界を認識した上で、作品とどう向き合っていくべきかを考えます。
とは言っても、作品の鑑賞の仕方にこれという明確な正解というものを設けようとすることは野暮だと思うので、ここでは考えられる方針を提示するに止めようと思います。
③プリプリの今後とどう向き合っていくべきか
まず、我々がこの作品と共有せねばならない問題は、「夢は叶うのか」、「夢を目指すことが良いことなのか」という問いです。他にもジェンダーの問題や、プリキュアの存在意義などの問題(これはアイデンティティの問題にも繋がるかもしれません)があります。
制作の側も最終回まで常にこうした問いと向き合い続けることを強いられるだろうし、我々もその所産(生み出したもの)に触れることでその答えを探し続けることになるでしょう。
だからといって、最終的に制作の側が納得のいく答えを見つけなければいけない、というものでもありません。それは間違いなく、1シリーズのスタッフの手には余るものです。シリーズが続く中で、あるいはシリーズが続かなくても別のところで、問い続けられるべき問題だと思います。
差し当たって我々に何ができるかというと、「作品と対話すること」です。これは別にスピリチュアルな話ではありません。対話とは作品に対して問いを投げかけ、作品の側から答えを引き出そうとする営みです。幸いにも女児向けアニメというものは、それが曲がりなりにも教育的作用を期待されている以上、作品を通して積極的に語りかけなければなりません。それ故に、こうした問題を考える上で、女児アニメというものは対話の相手としては最適なわけです。
ただし、ひとつ注意が必要なのは、女児アニメが子どもに対して語りかけるものである以上、ある時にはメッセージを強引に凝縮して伝えなければならないという側面を持つことです。それはしばしば「矛盾」という形で現れます。それを見逃さないことが大切です。
これらを要約すると、「清濁併せ飲んだ上で、作品・キャラクターと共に歩んでいく寛容な姿勢」が大事ということになるでしょうか。
こういう「べき論」においては、「要約」というものは何とも無味乾燥ですね。
④終わりに
「清」の部分については別に僕が語らなくても皆さんおわかりのことだと思うので、敢えてこの場では「濁」の方に焦点を当てて話をさせていただいたわけですが、いかがでしたでしょうか。こうしたことを認識してもなお「俺は(私は)今期プリキュアを応援する!」と断言できる方たちにとっては、③(今後作品とどう向き合うべきか)の内容は不要だったと思います。③で語ろうとしたことは、こうした議論を目の当たりにして「あれ、今期プリキュアって大丈夫なのかな?」と少しでも不安に思ってしまった(僕をはじめとする)方々に対するフォローでもあったわけです。
最初にお話したように、「作品内」のことと「作品外」のこととは切り離して考えられるものですので、「作者の気持ちとかどうでもいいんじゃ!」という姿勢もそれ自体は批判の対象にはならないでしょう。
しかし、作品やキャラクターたちが置かれた境遇(=コンテクスト)を踏まえた上で作品を鑑賞することによって、より多くの知見が得られることもまた事実です。
なので、その作品が好きであるなら、コンテクストを把握することでより深い理解が得られる鑑賞方法を知っていると非常に役に立つだろう、という考えでもって、お節介ながら長々と語らせていただいたわけです。
この記事が皆様のプリキュアへの、ひいては女児アニメへの愛を一層深めるものになったのならば幸いです。
また、ここまでの長丁場に渡る議論を経ていただいた上で厚かましいこととは承知しておりますが、よろしければご意見・ご感想をお寄せください。更なる議論の展開を助けるだけでなく、単純に励みになりますので。
それでは、ここまでお目を通していただいて誠にありがとうございました。
ごきげんよう。