なでかたジョンの雑記

元中国語学専攻の元同人作家兼元踊り手の、元も子もないブログです。

第2回に対するコメント反映

ごきげんよう、なでかたジョンです。

お姉さまに曲がったタイを直してもらうためには、まずタイをしなければならないと気づいて愕然とする毎日です。

さて、前回の「どうなるGO!プリンセスプリキュア」ですが、そこそこの手応えがあったように思います。Twitterで感想を下さった方もいて、嬉しい限りです。今後も皆様が楽しめるような記事を書いていきたいと思った次第であります。

しかし、同時に物足りなさも感じていました。閲覧数の問題ではありません。

反論が来ないんです

まあ結局は限られた人(多くは知り合い)しか読んでいないということも関係しているでしょう。ネット上でのやりとりが中心のデリケートな関係において、相手の議論の矛盾を論(あげつら)う態度は、ある種「コミュ障」かもしれません。

ですが、議論の正しさを重視する者ならば、批判こそすべてではないでしょうか。

議論好きの人間はみな批判されたがっていると言ってもあながち間違いではないでしょう。

けれども厳然たる事実として、僕のもとには「語彙が難しくて読みづらかった」とか「議論が難解で読みづらかった」というもの以外の批判が来なかった。勿論こうした批判それ自体は真摯に受け止めて改善していく所存ですが、議論そのものについての批判がなかったことはとても残念でした。

第1稿の時点で議論が完成されていることが極めて例外的である以上、それは(主に第三者によって)乗り越えられるべきものです。なので、仕方なく自分で補強していこうと決意しつつあった、その矢先でした。

コメントが来たのです

急いで内容を確認すると、僕の記事に負けない長文。しかも内容は多分に批判的です(且つ文体には誠意が見て取れました)。もうね、小躍りしましたよね。

改めて言いますが、これは非常にありがたいことです。持論は批判を受けて補強されていくのです。どちらにお住いかわかりませんが、これ以降は足を向けて寝られません。北関東在住でないことを祈ります。(北関東的な色使い)

 

さて、このように誠意のある批判を受けたからには、こちらとしても誠意を持ってそれに答えるべきです。以下に批判の要点と、それに対する僕の見解の要点をまとめておきます。これで「ふぅん」と満足なさった方には、これ以上の議論は必要ないと思われますので、星をつけたり読者になったりして頂いた後でブラウザバックなり何なりして頂いて構いません。それ以外の「どういうこっちゃ」とか「コイツは果たして私の思考レベルに到達しているかな」という感想を抱いた方は、続きをお読みください。興味はあるけど全部読むのは面倒という方は、差し当たって③⑤⑥あたりが重要かと思われるので、そこだけ読んでいただいても構いません(その上で星をつけたり読者になったりしてください)。

 

①文章が読みづらい

 ⇒頑張ります

姫コスってだけで「時代の潮流に逆行」?

 ⇒服装自体ではなく、その背後にある「意味」の問題です。

③「時代の潮流に対する逆行」、「旧時代的な女性像の再生産を強要すること」が何故いけないの?

 ⇒(「いけない」というか問題があるのは)それが差別を助長する論理に結びつくからです。

異性愛も性の多様性の一つだから問題ないのでは?

 ⇒それは、幼児期において「誰が」「どのようにして」性の多様性の他の諸側面を教えるのか、ということが明確になってからの話です。

⑤プリプリは異性愛以外の価値観を否定してるわけじゃないし、看過すべきでは?

 ⇒子どもが第一に模範とするプリキュア達の行動が、商業主義的な印象操作に利用されていることを考えると、僕はそう楽観視もできないと思います。

⑥じゃあ「夢を諦めろ!」って言えばいいの・・・?

 ⇒要するに「夢の伝え方の問題」です。今作では、最悪の場合、「プリンセス願望(=アイドル願望)」が子どもに刷り込まれることになり得ます。

「夢」っていうテーマはやっぱ良いと思う

 ⇒僕は「プリンセス」というモチーフ以上に問題だと思います。下手したら、プリキュアの存在理由さえ脅かすものです。それは、一つには作中におけるモブキャラの夢の描かれ方、もう一つには現代社会のシステムが「夢を追う」のに十分な救済措置を完備していないことが理由としてあります。(これは予告編です。ちゃんと書こうとしたら余りにも長くなりそうだったので、記事を分けることに致します。しばしお待ちを。)

 僕のもとに届いた批判コメントは前回の記事のコメントに載せてありますので、気になる方はそちらを御覧ください。コメントをお寄せいただいたのは夏希さんという方です。恐らく女性だと思います。ジェンダーの話もありますし、性別がわかるとより面白いかもしれませんね。

 

それはともかく、寄せられたコメントは、コメントフォームの不便さを感じさせないような、よく体系付けられた文章でした。そこにはシリーズに対する強い愛を感じました。

 

それでは、ご指摘いただいた疑問点、批判にお答えしていきましょう。

 

文章が長く、また(饒舌ゆえに)難解であるため、かえって主旨が伝わりにくいように感じます。

 

全くその通りですし、色々な方から同様のご指摘を受けました。
これに関しては、言い訳はせず、皆様にわかりやすい文章作りに励んでいくことで誠意を示そうと思います。(手始めに議論の要旨の項を設けてみたり、難語彙の意味を開いてみたりしてみました)

 

>「時代の潮流に逆行」についてですが、ウェディングドレスを代表するように、女性的なドレスは現代でも十分に需要があり、人気があります

普段着の流行が、そのまま、その時代の女性の願望とは限りません。

 

ここで問題にしているのは、世界的に見られるジェンダーに対する姿勢の推移(ホモセクシュアル=同性愛の容認、フェミニズム=性差別撤廃運動の伸長など)に逆行するような価値観(男尊女卑、強いヘテロセクシズム異性愛主義が、衣服の上に反映されていることです。

女性的なドレスが今でも人気なのは、変わりつつはあるけれども、依然として(やはり)異性愛主義が優勢な価値観が揺るぎないものである、という話です。このことを根拠に「女性的」なコスチュームを全面的に擁護するのは、結局のところ(「みんなが好きなものが正しい」という意味で)マイノリティ(みんなと違うものを好む人)を排除する論理です。
ともかく、ファッションの流行は無関係とは言いませんが、それ自体は本質的な問題ではありません。

 

>「時代の潮流に逆行」することが、「なぜいけないのか?」の論拠が十分ではありません。「女性的すぎる」ことが「悪いことである」と決め付ける根拠が足りません。
>「旧時代的な女性像を再生産する」意図があるとしても、「それがなぜいけないのか?」が語られていません。

 

僕は「悪」ではなく「子どもの教育上問題がある」という書き方をしたつもりですが、誤解を招くような書き方であったことは反省しなければなりません。
何故「旧時代的なジェンダーの押し付け」に問題があるのかというと、それが差別を助長(≒推進)するからです。(これは明記すべきでしたね…

「女性はこうあれ」という先入観を持って成長することは、そこから逸脱する人(=「女性らしくない」人)を排除(≒差別)することにつながります。
現代に到るまで同性愛者が差別されてきたのはまさしくこのメカニズム(仕組み)においてです。これを果たして容認できるでしょうか。僕はとても容認できません。

「旧時代的であるか否か」自体が問題なのではなく、「それが価値観が異なるものへの理解を妨げるか否か」、つまり「それが差別を生むか否か」が問題なのです。

 

>プリンセスプリキュアに、性の多様化を否定する要素が多々見られるならば、その危惧も理解できます。
ただ、「旧時代的な、女の子らしい女の子」もまた、その多様化の一つとして認めるべきであり、その価値観を元に、主人公がその道に進むのは、なんら問題ないと思います。

 

異性愛主義を「多様性の一つの側面」として擁護する(かばう)のは構いませんが、では欠けた別の側面(同性愛など)は、「誰によって」「どのように」補われるのでしょうか。旧時代的な男女観を持った親によって育てられた我々が、その役目を十分に担えるでしょうか。

それを「家庭教育」や「学校教育」に押し付けるのは、僕は無責任で不誠実だと思いますし、そのような態度が「視聴率」や「商業的成功」といった言葉で正当化されて欲しくはありません。

たとえ大人たちが性の多様性を認識していても、それを次の世代に引き継がなくては、文化(世代を超えて受け継がれ、社会の中に蓄積していくもの)的な営みとは呼べないのではないでしょうか。

 

>「女の子らしい女の子ってステキ」ってメッセージもそうです。そういうメッセージを放つことは、何も問題がないと思います。問題は、それ以外の価値観を否定することじゃないでしょうか? プリンセスプリキュアには、今のところ(私には)その意図は感じられません。

 

確かに、これから先に展開されていくストーリーのすべての側面において異性愛の絶対化(「押し付け」)が為されるかどうかはわかりません(最近はオカマキャラもいますし)。

しかし、やはり子供が憧れ、模範とするのは、まず第一にプリキュア達だと思います
なので、彼女たちが皆一様にプリンセスを志向する(プリンセスになりたいと思う)ならば、それはほぼ確定的に子供達の価値観をプリンセス志向へ持って行きますし、それによっておもちゃが売れるのです。(これは声を大にして言いたい)
こういうきな臭い話には蓋をしたくもなりますが、しかしどうしても、民放の女児アニメを考える上で、商業目的の印象操作(おもちゃを欲しがるように子どもたちの考えを誘導すること)は無視できないと思います。

 

>いや、わかるんですけどね(笑)じゃあ、「夢なんて時代に合わない」とか、「夢なんて無くても幸せになれる」とか、「諦めて現実的な目標を立てよう」なんてテーマのアニメが好ましいかと言うと……。
その一部の成功した大人って、やっぱり小さい頃から夢を抱いて、努力してきた人がほとんどなんじゃないでしょうか? 確かに夢を見るのが難しい時代ではあるけど、現代だって夢に向かって頑張ってる子もいるし、叶えた子だって少ないながらも居るはずです
「新規性を見出すのが非常に困難」な状況は、むしろ今後更に加速していくことでしょう。それでも、そんな夢の無い時代であっても、それでもやっぱり、「夢を見よう!」って、そう言ってあげられるのがアニメであってほしいって、私は思うんです。

 

僕は「夢を諦めろ」とまで言うつもりはありませんし、むしろ夢を追い続ける人がいるからこそ社会が発展していくと考えています。しかし、昔ほどには夢が実現し得ない時代においても尚、押し付けがましく「夢はいいぞ!」ということに疑問を感じるわけです。つまりは、「伝え方の問題」です。
プリキュア5のように、「主人公が自分の夢はなにか自問し、それに対する答えを見つけていく中で人間としても成長する」姿を見せるだけでいいんです(昔はよかったと言うつもりはありませんが)。
それを観てピンときた子どもが、夢を探し、見つけ、実現しようとする。それで十分ではないでしょうか。基本的に子どもたちは放っておいても「なりたいもの」を見つけます。
一方、作中で声高らかに「夢はいいぞ!」と囃し立てるとどうでしょう。しかもそれを「プリンセスになりたい」主人公に語らせるとしたら。
最悪の場合、それを見た子どもに「プリンセスになる夢」が刷り込まれるだけに終わります。言いすぎでしょうか。

・確かに、主人公以外にも様々な夢を持ったモブキャラ達が登場するにはします。しかし、夢を持ち、それに向かって努力し、実現していく姿を一貫して描かれるのは他でもなく主人公です
・また、夢の多様性(自分が将来何になれるかという選択肢がたくさんあること)というのは、自らの夢は何か自問する際にもっとも強く意識されるものですが、今作では初めから夢が決まっています
・加えて、アニメを観る子どもの側は、元々なりたい夢が固まっている上で試聴するのではなく、しばしばそれが流動的である(すぐに変わる)ことは本論でも触れたとおりです。

以上のことから考えるに、子どもたちに「プリンセス願望」が刷り込まれることは避けがたいと思われます。
更に、これは記事を公開してから気付いたことですが、プリンセスを目指すことは、アイドルを目指すことと非常に相性が良いのです。つまり、それが最終的に他者からの承認を志向するという点においてです。このことも非常に示唆的(しさてき:我々に何かを教えてくれるような)な意味を持つのではないかと思いますが、これについては別の記事で検証したいと考えています。

つまり、子どもたちに「安易な承認欲求の偏重(へんちょう:そればかりを重んじること)」を植え付けないためにも、今後の展開において、主人公が自らの夢を問い直し、あり得べき多種多様な可能性について考えなおす演出がされる(つまり、「プリンセスになるという夢」を、数ある選択肢の中の一つであると相対化(⇔絶対化=これしかない!)する)と、今作の教育的な意義がより良いものとして評価されると思うわけです。

 

夢をテーマにしたことは、悪いことじゃないと思います。「自分にしかできない何かを成し遂げる」って、確かにとっても難しい。だけど、それを目指すことが悪いとは思えないし、「頑張れ」って言ってあげられる大人だって居てもいいと思う。

 

「夢を目指すことは悪いことじゃない」というのは、僕だけでなく多くの人に共感されることだと思いますが、僕はこの作品において「夢」がテーマであることはあまり適当ではないと考えています(僕は善悪の二元論にはあまり意味を見出しません)。
それは、そもそも「夢」というものが、少なくとも現代社会においては非常にリスキーかつデリケートな問題であるからです。

 

…しかし、この問題について書こうとしたら余裕で1000字を超えてしまったので、この部分についてはまた別に記事を設けようと思います。

もともと「夢」というテーマ設定の問題についてはいつか改めて触れなければならないと思っていましたが、このような意見が提出されたことで僕の尻に火がつきました。

そうお待たせすることはないと思いますので、どうか愛想を尽かさずにお待ちください。

 

さて、保留にした⑦以外においては、夏希さんの批判に対しては全て応えられたかと思います。ご納得していただけるでしょうか。

僕は今回、夏希さんの批判を青く強調し、自分の意見を赤く強調しましたが、これには実は意味があります(あ、後付けじゃないんだからねっ!)。それは、自分に対する批判的な意見を敵として位置づけないためです。繰り返し述べますが、僕の議論の補強のために、時間と労力を割いてこんなに長いコメントを送るということは、誠意がなければできないことです。それを敵として、やっつける対象として印象づけようなどもってのほかです。むしろ、最大の歓迎と謝意を持って誠実に迎えるべきです。

それに、この批判は夏希さんのものであると同時に、皆様に共有され得るものです。そこにおいては、僕の意見こそある種異端なのです。異端者が開かれた世界に向けて語りかけようとするには、時に謙虚でなければなりません。

つまり、ここでの議論は、「僕の意見に対するあらゆる批判を誠実に受け止める」という姿勢を示す一種のパフォーマンスでもあったわけです。そのことを可能にしてくださったという意味でも、夏希さんの勇気と誠意ある行動には、最大級の感謝を示さなければなりません。

このブログをより開かれた議論の場になるための足がかりであることに期待して、これをもって終わりの言葉とさせていただきます。

 

では、また近日中に。ごきげんよう。