なでかたジョンの雑記

中国語学専攻の大学生兼同人作家兼踊り手の、何でもありのブログです。

第2回:どうなるGo!プリンセスプリキュア(後半)

皆さんごきげんよう。なでかたジョンです。

連続2回でお送りする「どうなるGo!プリンセスプリキュア」、後半戦でございます。

いよいよ、本題であるところの「プリプリの設定、世界観の何が雑なのか」という話に入っていきたいと思います。

 

この段階で「うっ」と拒否反応を示した方、大丈夫です。僕はあなたの敵ではありません。なので、まずは第1回の内容に目を通してみてください。

念のため僕がこのテーマについて語る上でのスタンスについてもう一度触れておくと、「作品の設定・世界観に反映される、大人たちの思想・価値観を問題にする」というものでした。

この点をご理解の上で読み進めていただかないと、「お前のやってることは単なる揚げ足取りじゃないか」という無意味な不快感を味わうことになってしまうので、改めてご確認をお願い致します。(僕のスタンスを理解した上で、根拠を提示して「結局お前もただの揚げ足取りだよ」ということを指摘なさる分には一向に構いません。これから話すことが杞憂だったら、と僕自身半ば思っているくらいですから)

 

さぁまたしても前置きが長くなってきたぞ。いい加減本題に入らないと設定したテーマに対して不誠実というものですね。それでは参りましょう。あ、今回アホみたいに長いけど、げんなりしないでね。(フラグ回収)

さて、差し当たって僕が疑問に思う点は、大きく3つに分かれます。それは、

①キャラデザ、モチーフについて

②主人公の夢&実現する手段と、プリキュアとして戦うこととの関係性について

③この世界観の中で描かれている対立項について

だと言えます。この時点で「あぁ、わかる気がする」と思う方もいれば、「全然わからんちん」という人もいるでしょう。いかんせん長いので、ピンと来ないテーマだけざっと眺めるのもアリかと思います。取り敢えず後者の方のために一つ一つ説明していきたいと思います。

(途中、わからないことがあれば、質問に対しては誠実に答えるつもりです。ブログ内のコメントにどれほどの早さで対応できるかわからないので、Twitter(@Nadekata_John)の方に振ってもらっても構いません)

 ①キャラデザ、モチーフについて

これは端的にいうと、ジェンダーの問題です。

ジェンダーというのは、百合との親和性が高いプリキュアファンなら馴染み深い概念だと思います。これは、生物学的な、つまり外見の上での性であるセックスと対を成す概念で、一般的には「社会的、文化的な性のありよう」と説明されるものです。

噛み砕いて言えば、「社会における男らしさ、女らしさのあり方」と考えて差し支えないでしょう。

 

で、それが何なのかというと、まず視覚的な点として、今作のプリキュアの戦闘衣装が時代の潮流に逆行するかのごとく女性的すぎる、という話です。それは突き詰めると、「プリンセス」というモチーフの問題になります。

なぜこのようなキャラデザになったか。僕は「アナ雪の影響」だと断じています。ソースはありませんが、商業的なノルマを抱えていることなどを考慮すると、他に考えようがないのも事実だと思います。(ちなみに、日本におけるアナ雪の公開は2014年3月14日です)

ただ、その「プリンセスというモチーフ」が持つ意味は、「流行への迎合」以上のものがあると考えています。


それは、(製作陣の思惑とは無関係に)前時代的な価値規範(特にジェンダー)の押し付けになり得るということです。これは児童向けアニメの教育的意義という点で、大きな問題であるように思います。
プリンセスというのは、それがそもそもプリンスありきの概念(princess="prince"+女性を示す接尾辞"ess")であることからも分かる通り、完全に男性優位な社会の産物です。決して「強く、優しく、美しい女性の総称」ではありません。生まれの問題、あるいは王子に見初められるかの問題なのです(この点について多少触れられている感想記事は見つけることが出来ました。)。

更に苛烈な言い方をすれば、「男にとって都合のいい女性像の押し付け」とさえ言えるのではないでしょうか。勿論、製作陣はそんなこと考えもしていないでしょうが。

 

勘違いしてほしくないのは、登場するキャラクターたちが、「自分の意志」でそのような夢に向かって努力することそれ自体は、なんら批判されるものではありません。問題は、そうした姿を見せることで、子供達がプリンセスになることを志向する、言い換えれば「旧時代的な女性像を再生産する」ことを志向するように、大人たちが仕向けているという側面があることなのです。皆様には是非ともこの危機感を共有していただきたいと思います。


こういうこともあって、教育の初歩の段階の児童が観るアニメは、性の多様化を認めつつある社会の動向に沿ったものであるべき(理想としては、普通の男の子も観ることができるプリキュア)ではないかと、去年の秋頃から考えていた身としては、今作のモチーフの更なる逆行に頭を抱えました。プリキュア以外のキャラクターで、そういった要素をもつ者が現れることに期待したいものです。

 

②主人公の夢&実現する手段と、プリキュアとして戦うこととの関係性について

タイトル通りです。まず、一つ一つの要素を明らかにしていきましょう。

まず、主人公「はるか」の夢は「童話の世界のプリンセスになること」です。この設定がもつジェンダー的な意味は上に述べたとおりです。

それを実現する手段は、強さ・優しさ・美しさ(ここに教養が含まれないこともまた問題だと考えるのですが、それは今回は置いておきます)をすべて身につけ「た上で、王子に見初められること」です。

ここまでは特に問題無いと思います。

 

では、「はるか」において、プリキュアとして戦うことの意義とはなんでしょうか。

それは、「自分に夢を諦めないことを教えてくれたカナタへの恩義」でした(第二話参照)。この目的意識の設定は、最早プリキュアにお約束の「運命を一瞬で受け入れる現象」に対して好意的な解釈を可能にした点では有意義だったように思います。

しかし、それは今作のテーマである「夢を抱き、それを叶えようと努力し続けること」とどのように関係してくるのでしょうか。

 

(1)まず考えなければならないこととして、「はるか」が戦士として闘うことを受け入れた段階において、「プリンセスプリキュアになった=プリンセスになった」という誤解をしていたことがあります(これは第1話を観てもわかります)。これはアロマによってすぐさま否定されましたが、同時に「それでこそプリンセスを目指す者ロマ」と言っていることには注意が必要です。「プリンセスを目指す者、プリキュアとして闘うべし」ということです。

(2)では、プリキュアとして闘うことが、プリンセスになる夢の実現を保証するのでしょうか。僕は怪しいと思います。

カナタと結ばれるべきプリンセス候補が「少なくとも」3人いるということがまずありますし、それ以上に重要な問題があります。

アロマは「プリンセスになるには強さ、優しさ、美しさの3つを兼ね備えることが必要だ」「プリンセスを目指す者はプリキュアとして闘わねばならない」と言っていますが、この2つを論理的に結びつけるべき、プリキュアとして闘えば強さ、優しさ、美しさが身につく」という言説はありませんでした。論理が成立していないのです。

これを「アロマが考えなしに言っただけだろ」などと擁護することは無意味です。考えなしにそう言わせた製作陣の問題なのですから。

いずれにせよ、ここには巧妙な欺瞞(あざむき)があると思います。このロジックは、親が子供に対して不利益な要求を飲ませようとする際に非常に有効だと思われるからです。どういうことでしょうか。

 

まず、ここでの議論において、「プリキュアとして闘うことを描く意義」というのは、戦闘が夢の実現に対する合理的な方法論だと言えない以上、「自己犠牲の美学」に留まるということを確認しておきます(これは第2話冒頭の「もう(ゆいちゃんを)危ないことには巻き込めないもんね」という発言において既に見ることができます)。

なおかつ、この「自己犠牲の美学」である戦闘に参与する根拠となる論理がそもそも破綻しているのは、直前の議論で見たとおりです。

つまり、少なくとも現時点において、アロマの論理に従う形では、プリキュアとして闘う理由はないわけです。唯一理由になり得るのは「カナタへの強烈な恩義」です。

 

結論だけ聞くと、「なんだ、そんなこと最初からわかってたよ」と言いたくもなるでしょう。しかし、この「プリキュアとして闘う」ことの裏に隠された論理的な欺瞞について、我々はここまで自覚的だったでしょうか。

それはつまり、自己犠牲の美学の正当化における欺瞞です。これはたとえば、お風呂掃除をするように命令する際に、「プリキュアだってみんなのために頑張って夢を叶えたでしょ」のような言い方を可能にするのです(これに関しては適切なたとえだと言える自信がありませんが)。

お風呂掃除を手伝うことが美徳であることに異議を唱えたいわけでは、勿論ありません。「自己犠牲が夢をかなえるための適切な手段であるかのように語られる欺瞞」が、親の子に対する接し方として不誠実であるということを問題としているのです。そしてこれは勿論、人間一般の関わり合い方にまで敷衍して(おしひろげて)言うことができます。

そして、このような「自己犠牲の美学」の強要は明らかに、子供のためを考えた教育的な発想ではなく、製作陣と親との間の、子供を都合よく手懐けるための共謀なのです。

 

戦闘への動機付けに関しては他にも色々と考えなければいけないことがあるとは思いますが、それはこの記事への反論に譲るとして、ひとまずここで切ろうと思います。

他の二人がいかにしてプリキュアとして闘う意義を見出していくか、その描かれ方にも、今後注目して観ていこうと思います。

 

③この世界観の中で描かれている対立項について

「おいおいまだ続くのかよ」って感じですよね。僕も同感です。

しかし、この最後の点については、どうしても触れなければなりません。なにせ作品の構造に関わる重大な話ですので。ドレスは変えなくても「気持ちアゲて」参りましょう。

 

さて、ここまで読んでくださった方々には、僕が善悪の二項対立、勧善懲悪そのものがダメだと言おうとしているわけではない、ということは察してくださっていることと思います。問題は、何が対立項として設定されているかなのです。
今作において、それは「夢を諦めないプリキュア」vs「夢を否定するディスダーク」という形で示されています。
一見すると十分対立できているようですが、僕は実際のところ、力関係は均衡とは程遠いものだと考えています。

 

つまり、「人間一つ夢を否定された(あるいは一つの夢が実現不可能だとわかった)からといって、そんなすぐに駄目になるものだろうか」、さらに言えば「夢がないからといって絶望するのか」ということです。「夢のない若者」ということが社会で取り沙汰されるようになってからどれくらい経つでしょう。彼らが「夢がない」という理由で絶望するのなら、とっくに自殺に至っているはずです。

(この文脈における「夢」という言葉は、「大いなる希望」を指すものとして扱われています。「夢」という言葉は、「欲望」とどのように線引きされるのかが曖昧であるという点で、そもそもマジックワードなのではないか、という疑念は尽きないのですが、これは言っても仕方ないことだと思います。ここでは、作中で語られる「夢」の定義を、作品の文脈と照らし合わせることで設定しなおし、それに沿うような形で「夢」について議論することが最も妥当だと考えます)

 

さて、こうしたことを考えても、この二項対立構造では敵側に勝ち目がなさすぎるのです。これが「愛」であったなら、まだ「愛なき世界は絶望」という言葉にも説得力がありますが、これが「夢」となると、そもそもの対立構造に無理が出てきます。では、なぜこのような構造を採用したのでしょうか。

 

ここで僕はこのテーマ設定の背後にある、製作陣が期待する教育的効果を考えてみました。それは、
(1)「これを観て育った子供達が、将来自分の夢を諦めてしまいそうになった時に、『プリキュアたちも頑張ってたじゃん!』と奮起してほしい」
(2)「最近の若者には夢を持っていない者が多く、嘆かわしいことだ。君たちは立派な夢を追い求めてくれ」
というようなものだろうと思われます(これ以外の可能性を提示していただきましたら、それについても考察してみようと思います)。しかし、僕はこのどちらも、どこかズレていると思えて仕方がありません。

(1)については、「そもそも幼いころに抱いた夢に固執させることが良いことなのか」という疑問があります。経験からおわかりになると思いますが、子供の頃に語った夢なんて、コロコロ変わっていたのではないでしょうか。幼いころに抱く夢というのは、しばしば非現実的で、且つテンプレート化されたものだったと思います(男の子ならスポーツ選手、女の子なら花屋さん。ここにもジェンダーの問題があります)。それが成長するに従って常識を身につけて見識を広げ、様々な可能性の中から自分の適性に応じた夢を見つけていくのが一般的かつ自然だと思います。

 

(2)については、「そもそも現代の社会において、将来性を感じることが益々できなくなってきている」ということへの認識が製作陣の中にどれだけあるかが疑問です。昨今では様々な技術が飛躍的に進歩し、フロンティアはどんどん開拓され、新規性を見出すのが非常に困難になっています。これはマスメディアが一つのセンセーショナルな事件、あるいはそれと同系統の事件を連日飽きもせずに報道し続ける現状を見れば一目瞭然だと思います。そうした中で、人々は「自分にしか務まらないこと」を見つけることが益々難しくなり、結果として「夢なんてなくても仲間内で楽しくやれればいいじゃん」という発想に行き着いてしまっているのです。
このことを考慮せずして、一部の成功した大人たちが「夢はいいぞ!夢を持とう!」などと囃し立てるのは、僕は余りにも無責任であるだけでなく、時代の推移に対してまったく非適応的であると言わざるを得ません。

この無責任さはプリキュアに限った話ではなく、特にアイドルアニメにはこの傾向が顕著に見られると思います。アイカツはまだ目的と手段について現実的で、ある程度誠実だと思いますが、なかでもプリパラは(僕はまだ3話までしか観ていませんが)、逆にメタ視点なのかと疑うほどに無責任の構造が先鋭化されていると思います(手当たり次第女の子に「アイドルになる権利」を与えるお節介さ)。

この点については、いずれ話すかもしれないし、話さないかもしれません。

 

さてさて、取り敢えず語るべきことは語ったように思います。割と燃え尽きました。

この記事において僕は、大きな枠組における問題点を指摘することで、感情に訴えかける「もっともらしい」価値観の押し付け、その背後にある欺瞞と無責任さを明らかにしようとしました。

 

ここでやはり念を押しておきたいのは、プリキュアの世界設定等のシステムを批判しているからといって、この議論はプリキュアの面白さを貶めようとするものでは決してないということです。

むしろ、作中のキャラクター達がどういう文脈の中で振舞っているのかというメタ的な境遇を把握し、その限界をキャラクターと共有することは、そのキャラクターへの深い理解と愛情につながるのではないかと思います。嫌いだと思っているキャラクター達は、実はそのように振る舞わなければいけないような要請を、システムの側、制作陣の側から課されているのではないか、という視点は、この意味で有意義なものであると思います。

 

そして、同じことが作品にも言えると思います。制作陣がスタート地点で課されてしまった(あるいは自らが課してしまった)システムの面での制約を我々も共有することで、ストーリーが進むにつれて、その制約の中でどのようなブレイクスルーを遂げるのか(制約から逃れられないまま終わってしまうこともあるでしょうが)という鑑賞上の楽しみを見出すことができるのではないでしょうか。そしてそのブレイクスルーは、我々の人生に大いなる刺激を与えると確信しています。

(できれば、僕がプリプリとそういった姿勢で最後まで向き合うことによってロールモデルを示せればいいのですが、卒論とかあるからなぁ…

まぁ、リアルタイムでは無理かもしれませんが、とにかく最終話までしっかり向きあうという義務は、この記事を公開した時点で発生するものとして真摯に受け止めたいと思います。)

 

いやはや、なんだか話が広がってきましたね。

ただ、この意味で、最近主流のアニメに宗教的意義を期待する言説(その最たるものとして「尊い」という言葉があります)には、その先に待ち受ける隘路を予見せずにはいられないわけです(つまり、作品の「教義」と自分の価値観との相性によって、その良し悪しを二元的に論じようとする閉鎖的な姿勢)。

そうならないためにも、作品を崇め奉るものとして対象化するのでなく、自分の方から作品に参入していく開かれた姿勢が重要になってくるのではないかと思うわけです。

(まぁ、最後の「べき論」については様々な反論があるでしょう。聞き流してもらっても構いません。ただ、僕は常々「どうすれば多くの人がより豊かな人生を楽しめるか」について考えている節があります。なので、こうした論調は今後も出てくるものだと思ってお付き合いください)

 

えーっと、そろそろ〆ましょう。

「なでかたジョンの雑記」第1回は、こんな感じで今期のプリキュアについて真面目に考えてみました。いかがだったでしょうか。(というか、ここまで読んでくださっている方が果たしてどれほどいるのでしょうか)

現時点で僕の主な関心は言語学(特に中国語学記号論)、社会学の辺りにあるので、今後もアニメや漫画なんかをそういった視点で捉えるような記事を(需要のある範囲で)書いていけたらいいなー、などと思っております。

一番目の記事としては大分目の粗い篩(ふるい)にかけてしまった感は否めませんが、ご興味を持たれた方は、今後もお付き合いいただきたいと思っております。

いよいよ7000字の大台に乗った事実に震えながら、擱筆(筆を置くこと)とさせていただきます。

それでは、ごきげんよう。ノシ