なでかたジョンの雑記

元中国語学専攻の元同人作家兼元踊り手の、元も子もないブログです。

格変化も活用も全部忘れたけど久々に好き放題言いながらロシア語を読む

ごきげんよう。なでかたジョンです。

今回はアニメや漫画の話じゃないです。最近はイナイレ初代とGガンダムを観始めつつアイカツフレンズを追いかけ始めました(今第5話まで観た)。風丸くん超可愛い。

私、学部1,2年の時の第二外国語でロシア語を選択してたんですけど、必修が終わってからはめっきり触れなくなってしまったなぁ~というお気持ちになったので、「じゃあ読もう!」っていう企画です(導入に尺を使いたくないので日本語が下手でも許してください)。

 

 今回読む本は、大学の文学部図書館から適当に選んだ『ПОМОРСКАЯ САГА(1984,Советская Россия)』です。背表紙に壁画風の絵が描かれていてお洒落だったので思わず手に取ってしまいました。Amazonには出品されていなかったので、代わりにロシア版Amazonの「OZON」のURLを貼っておきます(流石に埋め込みとかはできないのかな)。

https://www.ozon.ru/context/detail/id/1692387/

さて、これがどういう本かというと・・・よくわかりません(とても長い前書きをちゃんと読んでたら本文に辿り着く前に返却期限が来てしまう)。

タイトルの「ПОМОРСКАЯ」というのは「ПОМОР*1(北ロシアの沿海住民であるポモール人)」が形容詞化した語で、「САГА」というのはいわゆる「サガ」、まぁたぶん民話みたいなものだと思うので、ロシアの北極圏に住んでる人たちの昔話なんでしょう、きっと。

まぁでも折角OZONに短めの紹介文が載ってるのでこれを読んでみますか…。え~っと…

Описание: Издание 1984 года. Сохранность хорошая.Русский Север, архангельское*2 Поморье, издавна является*3 хранилищем неоценимых культурных сокровищ, созданных народом*4. Именно здесь жило изустное творчество, одухотворившее*5 поморскую литературу и сформировавшее ее особенности.

(説明:1984年刊行。保管状態良好*6。ロシア北部、アルハンゲリスクの沿岸地域は、古くから人々によってつくられた種々の非常に貴重な文化的財産の保管庫であった。ここにこそ、ポモールの文学にインスピレーションを与え、その特殊性を形成した、口承による創作が息づいていたのである。)

・・・長い時間費やして読み解いた割に得るものが少なかった感が否めませんね…。まぁ少しは文法の復習ができましたかね。それでは本文を見ていきましょう。

*1:"по(~に沿って)"と"море(海)"から成る。ポメラニアンも同語源だとか(すべてwikipediaで得た知識)。ついでに下の紹介文に出てくる"поморье"も同語源ですね

*2:ロシア語では地名が形容詞化すると語頭を大文字にしないんでしたね(汗)。暫く「大天使の沿岸」ってなんだ…?ってなってました

*3:явряться:(+造格)~である、~となる

*4:受動形容詞を用いた受け身表現における動作主は造格で表すってことをすっかり忘れててだいぶ時間持ってかれました…

*5:完了体動詞одухотворитьの能動形動詞過去

*6:中古品だったみたいですね

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アケカツに関するアンケートを採ってみたよ

お久しぶりです。正直帰ってくるとは思っていませんでした。
 
昨日Twitterで下のようなアンケートを採ってみたんです。

そうしたら、対象がやや限定されている上に回答者にそれほどメリットが無さそうであるにも関わらず300前後の投票を頂きまして。何かお返しするものが無ければ申し訳が立たぬという気持ちになり、私なりに結果を考察してiPhoneのメモ帳に起こし、そのスクショでも投稿するか~と思って書き始めたんですが・・・これがまぁスクショ4枚じゃとても足りない文量になってしまいまして。仕方なく2年ぶりのブログ記事という形を採って発表させていただこうという運びになってしまったわけです。

※つまり、過去記事一覧に並んでいるタイトルは2年以上前に書いたものなので、閲覧は自己責任でお願いします。

 

 

↓ここから本題

1.動機

昨日kirakiratter*1でアケカツ*2仲間がプレイ報告で「(マイキャラ名)ちゃん『と』遊んできた」という表現を使ったんですよね。格助詞「と」です。英語ならwith、中国語なら「和」。ロシア語はcだっけ・・・。
ともかく、青天の霹靂でした。
アケカツって「マイキャラと一緒に遊ぶ」という考えもあるのか!
と同時に、そこで「プレイヤーごとにアケカツに対する姿勢って異なるんだな~」と気付きまして、周りのプレイヤーがどういう心持ちで日々筐体に向かっているのか気になり始めました。
昔から一度気になりだすと止まらない杉下右京スタイルでやらせてもらっていることもあって、「オタクを恣意的に分類する類のアクションを起こすのは野暮なんじゃないの」という懸念は多少ありましたが、その日のうちにTwitterのアンケート機能を利用して調べてみようと思い立ちました。(Google formなど外部サービスのアンケート機能を使う選択肢もありましたが、今回は母数を大きくするために回答の手軽さを優先しました。このことについても後ほど触れます)。
 

2.選択肢の立て方

初めにアケカツプレイを「A.プレイヤーとマイキャラの関係性」と「B.ゲームをプレイするという行為の意味付け」に分けてそれぞれ場合分けをしてみました。以下のような感じです。
A.マイキャラとの関係性
①Pと担当アイドル
②身内(家族・友達)
③フアンと推し
④自分自身
⑤無関係(自分は神の視点)
B.アケカツという行為の意味付け
①マイキャラと遊ぶ(1対1)
②マイキャラを応援(認知あり)
③マイキャラを応援(認知なし)
④マイキャラを観察
ガバガバな計算で20通り、これだけあれば大体網羅できてるんじゃないかという気はしますが、致命的な問題。4択にはどうやっても収まらない。
おまけに無駄が多い。例えばAから⑤を選択した場合、Bからはほぼほぼ④を選択することが予想されますよね(ここで①~③を選ぶメルヒェンな人もそりゃ中にはいるでしょうが)。
中国語の音節表のような効率化*3を図り、プレイヤーはマイキャラにとって
 
⓪自分自身(何故か選択肢から漏れた)(今世紀最大のガバ)(コーナーで差がついた)
①身内(アイドルと1対1or1対多だが特別な存在)
②認知されているフアン(アイドルと1対多だがある程度特別な存在)
③その他大勢のフアン(アイドルと完全に1対多)
----------"筐体"という壁---------
④神(同じ空間、時空に存在しない)
 
という4(+忘れられた1)択にやや強引ではあるものの絞りました。これで(「自分自身」さえ漏らさなければ)調査対象を大きく取りこぼすことはないだろうという気はしていました。
結果は全然予想できませんでしたが、自分やkirakiratterの人たちの傾向とかを踏まえてなんとなく「③>①>②>④(or④>②)」あたりで想定してたように思います(本当に検討もつかなかった)。
 

3.結果

④50% > ①33% > ③13% > ②4%
1位から外しました。オールスター感謝祭だったら一番盛り上がらないパターン。でもびっくりですね。マイキャラ勢の半数はマイキャラと"アケカツ世界の中"では(ここ重要)何の関わりも持っていない(というかアケカツ世界に存在しない)ということです。アイカツおじさん/おばさんは意外と謙虚な人が多いということでしょうか。
 

4.考察(但しほとんど想像)

元々は何となく「みんなどんな気持ちでアケカツしてんのかな〜」程度の気持ちでしかなかったんですが、こうも予想を裏切られると色々考えてみたくなるものです。
 
4.1. ④50%という結果
まず思ったのは、「アケカツプレイヤーは意外とゲーム世界に没入できてないのではないか」ということです。
神の視点というのは、ゲームプレイヤーにとって最も自然な状態ですよね(ADVとかFPSとか1人称視点であることが多いジャンルもありますが)。普通に考えて、通常ゲームの中で起こっているのはあくまで現実の自分とは無縁の別世界の出来事なわけですから。ドンキーがマグマに落ちようがワニに食われようが「別に」となるわけで。
しかし、私にとってアケカツはプレイヤーがマイキャラと個別具体的な関係性を築いていくことで没入感を高めていくゲームだという感覚があった(だって「マイ」キャラだし)ので、大変意外に思ったわけです。
ただ注意したいのは、そういったプレイヤーの方々は完全に冷めきっているわけではなく、RTして下さった方のコメントにもありましたが「フアン/身内だと思ってはいるけど、マイキャラちゃんを動かしたり着替えさせたりしているのは私の意だから...」というように、プレイヤーとマイキャラの間に立つ"筐体"という存在が依然足枷になってしまっているケースもあるようです。
あるいは逆に筐体の操作を意識しているわけではなく純粋に「マイキャラちゃんたちの✨尊い世界✨に自分なんかがいて欲しくない👊」という気持ちから自分の存在を消す人もいたりと(むしろこっちが多数派かもしれない)、一括りには考えにくいところです。
 
4.2. プレイヤーの立ち位置の流動性
コメントの中には「最初はマイキャラ=自分自身だったけど、徐々にマイキャラが独り立ちしていった」など、プレイヤーとマイキャラとの関係性が時間の経過とともに変わっていったという意見も散見されました。
言われてみれば私自身、最初から「事務所の社長と所属アイドル」という関係性を考えていたわけではなく、一人目のマイキャラと初めて出会った時にはただの一フアンでした(気付いたら推しをプロデュースする側に回ってるってヤバみがありますね)。
では、プレイヤーの立ち位置はどうやって変わっていくのか?
ここからは完全なる推測ですが、以下のようにモデル化できそうな気がします。
 
START                   START
 神  ⇆  フアン  ⇆  身内  ←  自分自身
     遠 ← アイドルとの距離 → 近
 
START地点は「神」か「自分自身」かの2択なのではないかと思います。前者は「アニメ観て始める」「事前知識ないけどどんなものか試しにやってみる」みたいな人で、後者は「ゲームの世界で美少女アイドルになりたい!」みたいな人なのかな~と。
で、神はキャラメイクが自分の嗜好にハマったらまずフアンになりますよね。そしてプレイしていくうちにどんどんマイキャラちゃんが好きになって、「もうこれは私の家族なり友だちなり仲間と呼ぶべき存在でしょ」という心理になるわけですよね。「うちの子」とか「うちのアイドル」とか言ったりするわけです。
さて、しかし「身内→自分自身」という変化はありうるのでしょうか。「愛とは合一の志向である」みたいなことを5、6年ほど前に哲学の講義で聞いた気がしますが・・・。「マイキャラになりたい」と言っている人はよく見かけますが、「なりたい」という発言の裏には「(本当はなれないけど)」という前提が隠れているように思います。だからこそ「マイキャラのフアンになりたい」とか「マイキャラのマネージャーになりたい」とはあまり言わないわけです。
「自分自身→神」の説明は・・・眠いのでカツアイ!
とにかく、アケカツ世界におけるプレイヤーの立ち位置には流動性があることを確認しました。
 
4.3. ②4%という結果について
上の議論を踏まえたら比較的わかりやすいのではないでしょうか。
神から有象無象のフアンになり、そこから更にマイキャラちゃんとの距離を縮めようとするなら、普通は最短ルートで身内まで行ってしまうものだというのが私の考えです。逆もまた然り。
そう考えると、この4%(10人前後)の人たちはアケカツ世界でのロールプレイが相当上手い人なのではないでしょうか。こんな微妙なポジションによく身を置けますねぇ!
 

5.反省と今後の展望

まず、何度も言いますが選択肢に「自分自身」を入れ忘れたのは駒野がPK外したレベルの失態だと認めます。「0.自分自身」を加えたら、きっと投票結果は2位か3位になっていたのではないかという気がします。
また、「フアン」という項目がアイカツ世界の中におけるフアンを指していることが回答者にちゃんと伝わっているか若干不安で、文言をもっと工夫したほうが良かったかもしれないと思っています。
Twitterのアンケート機能の制約ももどかしいところで、今後は少し間をおいてGoogle form などを使ってより詳細なデータを集めたいな~とか思います(いや別に私じゃなくてもこの記事を読んで可能性を感じた人がやってくれた方がむしろ私は楽できるから嬉しいんだけどね。社会学とか心理学のちゃんとした知識もないですし。まぁ需要があって他にやる人がいなかったら考えます)。神の視点の人は達観しているのか、それとも世界観を守りたいのかとか、マイキャラ=自分自身の人は2人目以降を作る時1人目との関係性をどうしているのかとか、色々気になります。また回答に協力していただけると嬉しいです。
 
6.おわりに
アンケートの集計が終わる今日の13時までに記事を仕上げたいってことで徹夜突貫工事でここまで来ました。後半徐々に雑になっていってるのは許してください。書き忘れたことがあったら随時加筆修正していく予定です(絶対にやるとは言ってない)。「私はこう思う」とかあったらコメントください。それでは。

*1:マストドンにそういうインスタンスがあるんだゾ。気になったら調べてみてね

*2:データカードダスアイカツ(今だったらフレンズ)のこと。去年怖い人達に脅されて始めました。

*3:なぜ中国語の音節表を例に上げたかはカツアイ!しますが、結構面白いので是非各自調べてみてください

敢えて今、姫プリを考える。(2)テロリズムとプリキュア

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第42話終わりのシーン。最近ようやくこの展開を前向きに捉えることができるようになってきました。

 

はいどうもごきげんよう、なでかたジョンです。

何事も間が空いてしまうと続かなくなってしまうので、テンポよくいきたいと思います。

前回ははるはるの夢についてお話ししました。その続きです。早速始めます。

 

ジェンダーについて

1年前は散々うだうだ言っていましたが、今は「別に気にしなくてもいいか〜」と考えるようになりました。というのも、ジェンダーという観点からの批評というものが、近代文学にしか有効でないということを学んだためです(千田洋幸『ポップカルチャーの思想圏』(おうふう)を参照)。社会全体に共有されるべき「大きな物語」を描き得ない時代において、政治的なジェンダーの観点から作品を批評しても自己満足で終わってしまうということです。女の子が観るアニメがプリキュアしかないわけでもありませんしね。よってこの話はおしまい。ちゅんちゅん。

 

プリキュアが闘う意義について

こっちが今回の本題です。まだ「これだ」という結論は出ていませんが、現段階で考えていることを話していきたいと思います。

まず、「プリキュアが闘う意義」と言う時に僕が何を問題としているか、誤解が無いように説明しておきたいと思います。ここで問題とするのは、(プリキュアシリーズ全体ではなく)『姫プリ』という1つの作品の中において、主人公がプリキュアに変身して、人々を救い世界を守る必然性がどこに見出されるのか、ということです。少なくとも、「それがプリキュアだから」という製作側の都合の問題ではなく、寧ろその製作側の都合によって生み出された物語の構図を、我々がどのように解釈し得るかという話です。これを明らかにすることによって、冒頭に挙げた第42話で、なぜきららは自分の夢を犠牲にしてまでプリキュアとして闘わなければならなかったのかが見えてくるように思うのです。まあここでピンとこなくても、この先を読み進めてくだされば何となく僕が何を言いたいか見えてくると思うので、取り敢えず話していこうと思います。

 

(a)プリキュア前夜までの経緯

まずは、プリキュアが闘うに至ったストーリーを簡潔にまとめておこうと思います。

 

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1.ホープキングダムの人々の心の中に無意識的に存在する諦観レベルの小さな絶望が集積する

2.それがディスピアとして具現化し、肥大化を志向するためにさらなる絶望を求める

3.王女トワを手中に収め、ホープキングダムを滅ぼす

4.カナタは世界を救う希望をプリキュアに託す

5.全世界を絶望に陥れるためはるはるの世界へ侵食、障害となり得るプリキュアを殲滅しようとする

かくしてはるはる達はプリキュアとして闘うことを運命付けられたわけです。

 

(b)(a)の意味

上で述べた経緯がどのような意味を持つか考えようと思います。

ひとつ思うのは、1995年に起きた地下鉄サリン事件の発生経緯との類似性です。地下鉄サリン事件が起きた背景というのは、バブルが崩壊し長い不況の時代が到来する中で、前回も触れた「大きな物語」というものが失墜し、先行きが見えないことに対する不安が社会に充満、そうした不安を抱えた若者たちが、チープであるが故のわかりやすい超越性(宣伝ビデオ参照)を提示するカルト集団「オウム真理教」に誘引されていき、教祖・麻原彰晃に導かれるまま最終的にテロ行為を起こすに至ったというものでした。これは(a)で示したストーリーと似たものを感じます。オウム真理教が特別な政治的・宗教的理念も持たずしてテロを起こしたことの空虚さと、ディスピア(あるいはディスダーク)がただ自らに備わった成長システムに従う形で世界を絶望に陥れようとすることの空虚さ(*1)には多くの共通点があると思います。

大きな相違点は、『姫プリ』の場合はそれが世界を跨いだ動きとなっていることです。これは最近で言うと、むしろ中東、ヨーロッパの様々な国でテロ行為を行っているISIS(「イスラム国」)に似たものがあるのではないでしょうか。こちらもイスラームのテロ組織を名乗っている一方で、諸外国の退屈な日常に倦怠感や虚無感を抱く若者が刺激や変化を求めて参加を志願するケースが問題になっているという話も耳にします(北海道大学の学生にもそんな人がいた気がします)が、これもある種の空虚さを表していると言えます。

「イスラム国」に加わろうとした北海道大学の学生らを事情聴取 - ライブドアニュース

まさかプリキュアの記事でオウムの話が出てくるとは、とお思いになった方がいらっしゃるかもしれませんが、現代の思想・文化を語る上で、阪神・淡路大震災地下鉄サリン事件が起こった1995年というのは、決して無視することのできない転換点であったというのが割とその界隈では一般的な認識だそうです(ちなみに同年10月4日にTV版エヴァの放送が開始されています)。

 

整理します。未来に対する不安が社会に充満してくると、そのような行き詰まった現状を打破する超越的な力を持った(ように見えるが実態としては空虚な)求心力が現れ(オウム、ISIS、SEALDs、etc...)、その「何とかして現状を打破したい」という鬱屈した空気は往々にして暴力的な行為(テロ、うるさいだけのデモ等)という形を持って発散されようとします。これが『姫プリ』の世界においてプリキュアが闘うべきディスピア(あるいはディスダーク)という存在なのだと考えることができると思います。

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尊師(?)

 

*1:ディスピアの存在が空虚であるという分析は、「何のために全世界を絶望に陥れるのか」という問いを発したことから導き出されたものです。ディスピアがこの行為を遂行しようとすることを合理的に説明しようとすれば、「そもそもそういう風に設計された存在である(本能的な振る舞い)」としか言いようが無いように思います。明確な行動理念を持たないが故に「空虚」だと評価したのです。

 

(c)プリキュアの役割

(a)、(b)でひとまず敵の役割を明らかにしたので、ようやくプリキュアの役割について考えることができるようになりました。それは、「リスク回避装置としてのプリキュア」というものです。しかし、このディスピアとの対立構造によって見いだされるプリキュアの役割は、その一側面に過ぎないのですが。

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第49話より。「夢のある所には必ず闇が生まれる」

 

ここでいうリスクとは紛れも無くディスピアのことを指しています。U・ベック『危険社会』チェルノブイリ原発事故(1986年)の衝撃を受けて書かれた論文ですが、これによれば、

近代が発展するにつれ富の社会的生産と平行して危険が社会的に生産されるようになる。貧困社会においては富の分配問題とそれをめぐる争いが存在した。危険社会ではこれに加えて次のような問題とそれをめぐる争いが発生する。つまり科学技術が危険を造り出してしまうという危険の生産の問題、そのような危険に該当するのは何かという危険の定義の問題、そしてこの危険がどのように分配されているかという危険の分配の問題である。(太字強調はブログ筆者による)

 と言われており、この論文に端を発する論理体系を「リスク社会論」と呼びます(「リスク」と「危険」は別の概念であり、原題は「RISKOGESELLSHAFT」となっていますが、邦題はなぜか『リスク社会』ではなく『危険社会』となっています)。わかりやすい例としては、重化学工業の発展と公害問題の発生と環境庁(現・環境省)発足という一連の流れをイメージされると良いと思います。ここではそれをやや拡大して「人為的行為が必然的に伴う危険」を「リスク」と呼ぶこととします。

何が言いたいかというと、ディスピアとは、人が「夢」を持つことを選択することによって必然的に生み出されるリスクである、ということです。そして一度生み出されたリスクは基本的に消滅することはなく、それ故にその分配が問題になるのですが、これが『姫プリ』中においては、最終的にカナタによってプリンセスプリキュアに託されることとなったわけです。プリキュアが「リスク回避装置」としての役目を負う側面を持っていると言ったのはこういうことです。

こうしたリスク回避装置は、現実の社会に置き換えてみれば、生活保護などの社会福祉制度であったり、心の病を和らげる精神科医臨床心理士のような職業がそれに当たると考えられます。ここへ来て、僕が一年前に提唱したプリキュア=精神科医」説がさらなる説得力を持って反復されることになるのです(プリキュア=精神科医」説については↓こちらの記事をご参照ください)。

honghuzhizhi.hatenablog.com

 

 

(d)なぜ彼女たちが選ばれたのか

『姫プリ』の世界にプリキュアがいなければならない理由については一つの答えを見出しましたが、それでもわからないのは、なぜプリキュアとして闘うのが彼女たち3人(途中からトワも加入)でなければならなかったのでしょうか。この問いについては、各キャラクターが異なる目的によってプリキュアになることを選択しているように思えるので、また場合分けして考えていこうと思います。

しかし、この項を書ききるためには文字数がかなり膨らんでしまうことが想像に難くないので、尻切れ蜻蛉ではありますが今回はここまでとさせていただきます。皆様も次回の更新までに自分なりの回答を用意しておいてくださると、よりこの記事の閲覧が有意義なものになると思いますので、お時間ございましたら何卒ご検討ください。

 

それでは、ごきげんよう。

敢えて今、姫プリを考える。(1)「夢についてはるはるが教えてくれてたこと」

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第50話より 「会いたいと...」「心から望めば」

 

お久しぶりです。ごきげんよう、なでかたジョンです。

 

前回の投稿から1年以上経ってしまいました。

卒論を書いたり、院試を受けたり、院試に合格したり、卒業単位が足りてなくて留年が決定したり、アイカツ本を出したり、そんな感じで1年過ごしてました。

 

それはさておき、このブログで「姫プリを1年間ちゃんと追って、最終的にこの作品の価値を評価しよう」と宣言したのを、ようやくこのタイミングで回収しに来ました(当時、略称は「プリプリ」で貫き通す!と言っていましたが、やっぱり語呂の良さには勝てなかったよ・・・)。

 

しかし、なぜ今なのか。なぜ魔法つかいプリキュアが始まって3ヶ月が経とうとしている今なのか。『姫プリ』ロストに終止符を打つためか。答えは簡単。

 

4月の頭にようやく姫プリ最終回まで観終わったからです。

 

アニメ一本観終わったので感想を書く。非常にシンプルな行動原理です。

しかし、(もし前回までのブログを読んで続きを楽しみにしてくださった方がいたのなら)月並みな感想を並べ立てても申し訳がたたないので、1年前に提起した問題を回収しながら、また新たに気づいた問題にも触れながら、『姫プリ』という作品の意義や価値を再び考えていきたいと思います(そのためタイトルの中に不穏な数字が鎮座しています)。

(過去記事読んだことない人は右のトラックバック辿ってお読みになっていただくと、話が理解しやすくなるかと思います。たまにわかりやすさを意識しすぎて逆に見づらくなっているような部分もありますが、若気の至りということでお許し下さい。赤文字ってちょっとうるさいよね)

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第4回:天ノ川きららは我らのトゥインクルスターになれるか Part.2

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モデルって実際どのくらい忙しいんでしょうか

 

ごきげんよう、なでかたジョンです。

割と間が空きましたが、前回に続いて天ノ川きららの話を中心に第6話現在までのプリプリの話をしていこうと思います。(余談:Go!プリンセスプリキュアの略称について、第1話の時点で「プリプリ」と決めてしまったのですが、後々他の人達が「姫プリ」とか「Go!プリ」とかセンスのいい略称を使ってるの見て少し後悔してます。でもこのままでいきます)

 

↓前回記事:きららが成し遂げた功績について

honghuzhizhi.hatenablog.com

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第4回:天ノ川きららは我らのトゥインクルスターになれるか Part.1

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そういえば、みなみんの解錠バンクをまだ見てない気がします

 

ごきげんよう、なでかたジョンです。

しばらく間が空いてしまいましたが、久々にプリキュアの話をしていこうと思います。

 

6話まで観た感想をざっくり述べると、

第4話→きららちゃんキタコレ! 東映勝ち確っしょ!

第5話→あれっ

第6話→いやいや待て待てKOOLになれ

という感じです。大体お分かりの人もいれば、何を焦っているのかわからない人もいることでしょう。なので、もう少し詳しくお話していこうと思います。

 

今回ポイントとなるのは、

①天ノ川きららというキャラについて

②「プリキュア」の位置付けについて

③今後の課題

の3点です。

※例によって例のごとく、見切り発車で書き始めているので、今後何の前触れもなくテーマが変更になる恐れがあります。予めご了承ください。

 

ただし、今回も相当なボリュームになることが予想されるため、いくつかのパートに分けようと思います。Part.1では、主に天ノ川きららが成し遂げた功績についてお話ししたいと思います。1パート3000字くらいが無理なく読めるのではないでしょうか。

 

※「この記事が初見です」という方には、過去記事を読んで、僕がどういう立場で今期プリキュアを語ろうとしているのか把握した上で読み進めていただくことを推奨します。しかし如何せん長いので、なるべくこちらでも簡単に触れられればと思います。


第2回:どうなるGo!プリンセスプリキュア(後半) - なでかたジョンの雑記


第3回:プリキュア=精神科医!?姫プリにおける「夢」とは? - なでかたジョンの雑記

 

※また、この記事が初見ではない方も、僕のこのブログでの記事の書き方についての考え方を少しまとめた記事を作ったので、そちらに目を通していただくとありがたいです。こっちは短いのですぐ読めると思います。


「教えてあげる君」にならないために:ブログについて思うこと - なでかたジョンの雑記

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「教えてあげる君」にならないために:ブログについて思うこと

ごきげんよう、なでかたジョンです。

今、プリキュア考察記事の第4回を作成中なんですが、その前に、今後どういった形で記事を書いていこうか、ということについて少しお話したいと思います。

 

わかりやすけりゃいいってもんじゃない

タイトルにある「教えてあげる君」というのは、今年のセンター試験の現代文の問題にもなった佐々木敦さんの『未知との遭遇』からの引用です。

これはどういう意味かというと、「調べればすぐに分かるような知識を提供するだけで、それ以上の知的好奇心を引き出すことに寄与しない人」のことです。「自分の知っていることだけで済まそうとする人」とも言えるでしょう。

これの何がいけないかというと、問題を常にミニマムに処理しようとするので、その営みの結果によって知識の総量が増えるということが極めて起こりにくいからです。

つまり、教えた方も教わった方も、「なんとなく全てを理解したつもり」で終わってしまうということです。

 

なぜこのような話をするかというと、僕のブログがそのような傾向に陥りつつあるのではないかという危機感を抱いたからです。

僕が初めてプリキュア考察記事を書いた時、「語彙が難解過ぎて読みづらい」とか「結論が中々見えてこない」というご指摘を頂きました。

僕はこれに対し、多くの人に読んでもらいたいのであれば、わかりやすさは大切であると考え、次に書いた記事では総論を先に持ってきたり、難語彙には注をつけるなどして記事を見やすくするように努めました。

しかし、それでもなお「読みづらい」「長い」「インテリぶってんのか」という批判を頂いたため、その日のうちに難語彙を用いること自体を諦め、画像を用いるなどして「わかりやすく」「キャッチー」なブログにするべく心血を注いで編集しなおしました。

その結果、「かなり見やすくなった」というコメントをいくらかもらったのですが、時間が経つに連れ、「これでよかったのか」という疑問がふつふつと湧いてきました。

 

それは、「わかりやすくなった分だけ、なんとなくわかった気になって帰る読者が増えてしまうのではないか」という危惧です。

簡単な言葉を使って記事を書けば書くほど、その内容は「もっともらしく心に響く」ものとなります。人間わかりやすい方に傾くものです。

 

ただ、僕がこのブログでやりたいことは、「こういう見方をすればプリキュアという作品はこういう風に見えてくる」という例を一つ示すことによって、「プリキュアも単なる子供向けの娯楽作品ではなく、もっとたくさんの学ぶべき要素を含んでいるんだ」ということを読者に理解してもらうことです。

そして、「所詮は子供向けだしな・・・」と自嘲気味にならずに、プリキュア視聴という行為をもっと主体的な、幅の広いものとして考えてもらいたいと思っています。

なので、「お前がそう思うんならそうなんだろう。お前ん中ではな」という受け取り方は、できればして欲しくありません。

 

こうしたことがあって、ブログ全体をさらっとした言葉でまとめてしまうと、つまり、字面だけ追っていけばなんとなくわかったような気になれる言葉でまとめてしまうと、そこで思考が停止してしまうことになってしまわないかと恐れています。

それに、難語彙を日常語で言い換えるというのは、苦肉の策であって決して万能ではありません。意味の正確な伝達において必ず限界があります。

なのでやはり、最終的にはより正確に事態を言い表している(と僕が考えている)言葉のほうで理解してもらいたいと考えています。

だから、できるだけ「教養がないから」とか「学がないから」という言い訳を容認したくはありません。適切な注があれば、どんな難語彙であっても理解できないということは無いはずです。

 

以上のことから、僕は今後の記事においては、難語彙は難語彙のまま用います。それらに対して適切な注を付すことで、理解できないということがないように努めます。読者の側にもある程度の努力を強いることにはなるでしょうが、内容に関する質問にはすべて答えるつもりです。

こういうことで、今後とも一つよろしくお願いします。

では、また近いうちに。ごきげんよう。