1000アクセス超えたのでキリ番絵を描いた
1000Hitありがとうございます!
※二コマ目 萌のセリフ 「まだ飲む!?」 吉田のセリフ「行ってら~」
ごきげんよう、なでかたジョンです。
前回は琴葉とこ先生の『透明のココロ』を読んだ感想を書いたわけですが、おかげさまで、昨日と今日だけで延べ500アクセスをいただき、当ブログの総アクセス数が1000に到達いたしました。
そこで、昔からの夢だった「キリ番絵」ってやつを描いてみようと思ったわけですが、どうも僕にはイラストは敷居が高いってんで、やっぱり漫画にしました。
それに、漫画の批評とかやってると、どうしても「批評家様(笑)は安全圏から好き放題言えて楽しそうですよね~www」という見方をされがちになるような気がしまして。やはりここは誠意ある態度を示すためにも生き恥をさらそうと。そんなわけでございます。
で、描いたのがこちらの4コマでございます。『透明のココロ』から好きなキャラを4人(吉田真紀、宮川萌、聡子、木村)引っ張ってきて、全員木村の部屋にぶち込みました。二次創作っぽくていいですよね!
1コマ目の下には「ラフの時はメガネ」と書いたつもりなんですが、如何せん字が汚くて「うつ」に見えますね。まあ強ち間違ってないか。
最近勉強依存症で、あまり漫画を描けていなかったんですが、久しぶりに描くと楽しいですね。皆さんも漫画描きましょう( ー`дー´)
そろそろ溜まってるプリキュアやユリ熊嵐の記事も作りたいんですが、前回の記事を書いた後に色々気づいたことがあるのでそれについても考えてみたかったり、或いは最近読んだ本についても話したかったりと、やりたいことばかり増えていく今日このごろですが、これからもマイペースに自分の興味ある話をしていきたいと思っておりますので、どうぞよろしくお願いしますm(_ _)m
それでは、ごきげんよう。
(3/12追記)
まさかこちらの方で追記をすることになるとは。
さて、前回の記事が500アクセス以上を稼いだのは、作者である琴葉とこ先生がTwitterで何回も話題にされていた(「何言ってんだこいつは」的な文脈で)からというのが大きかったんですが、その琴葉先生から、このキリ番絵の記事に対するこのような言及がありました。
アクセス増やしてキリ番絵が描きたいだけに見えた
— 琴葉とこ (@kotohatoko0804) 2015, 3月 11
記事を書いた時にはまったく予想だにしていなかった(というあたりがまだまだ甘いところですが)反応だったので、結構驚きました。
更に、このtweetを、僕が尊敬している、非常に弁が立つサークルの先輩がfavっていたことが一層ショックでした。
まあ、そのような見方をされること自体はどうしようもないのかもしれないとは思いつつも、取り敢えずそれが僕の本意ではないということだけ簡単に話しておこうかと思います。
僕はこの記事をヘイトの捌け口にするつもりでした。というのも、ただでさえサブカル作品を語るということは「偉そう」に見られる上に、本家本元の作者から「何言ってんだこいつ」的な紹介のされ方をしたことによって、「こいつは安全圏から適当な事言いやがって」というヘイトがここ数日で急激に高まったのではないかと感じたからです。
なので、自分で二次創作漫画を描くというイタい側面を見せることで、「高みの見物をしているわけではない」ということをわかってもらおうとする意図がありました。
ただ、漫画の政治利用しかしていないというわけではなく、描く時は普通に好きなキャラを好きなように描いていたわけですが。
なので、tweetで指摘しているような「自分の漫画を見てもらうためのアクセス数稼ぎに利用された」という感覚は僕からすれば「誤解」です。自分のキャラ萌えを否定されたようでもあり、少し悲しいです。
勿論、ブログでの活動を通じて同人活動の方も知ってもらいたいという気持ちは当然あります。ただ、当記事においては、それは完全に副次的なものです。
だって、キリ番絵が描きたいなら100アクセスでも500アクセスでもできたわけですから。だから僕がこの記事を投稿した時にTwitterで「同人作家としての夢を叶えました」と言ったのは大部分において「ネタ」だったわけですが、それを揚げ足取りに使われてしまったのは迂闊でした。
というか、「同人活動宣伝するためのアクセス数稼ぎお疲れ様です」って、『透明のココロ』第5話の「男に媚び売るための得点稼ぎお疲れ様です」と同じじゃないですか? だとしたら笑えないギャグですよね。
そのように言いたくなる気持ちは分からないでもないですが、だとしたら、僕自身がTwitterでほとんど宣伝しなかった(上述のように目的が違ったので)この記事のURLをTwitterに貼った先生のほうが宣伝に加担してますよ、ということを言いたいです(事実、それまでこの記事自体のアクセス数はほぼ0だったので)。まあいずれにせよこっちの記事は大したアクセス数ではないんですが。
最終的に何が言いたいかというと、「僕のブログを読んで悪意が芽生えようが構わないけれども、僕個人は悪意を持って書いているわけではない」ということと、「そのような『誤解』が生じないような努力はするけれども、『誤解』を受けたことによってブログのコンセプトを変えるようなことはしない」ということです。
聖帝風に言うと「退かぬ! 媚びぬ! 省みぬ!」といったところでしょうか。あ、でも反省はしますよ。
さて、これだけ書けば、少なくともちゃんと読んでくださった人にはある程度伝わるでしょう。この件に関しては、恐らくこれ以上の弁明はブログでもTwitterでもしないでしょう。直接意見を頂いたら応じますが、僕としては解決しました。あとは先生と飲んだ時に喧嘩しまくるだけです。
あ、でも、こういう事態が発生した経緯を考えるにあたって、また興味深いトピックが見つかったように思うので、そのような形では言及することがあるかもしれません。転んでもただでは起きないということで。
そんなわけで、今後の更新をご期待ください~。
『透明のココロ』を読みました
お久しぶりです。なでかたジョンです。
この頃本業の中国語とニコ動視聴にお熱なので色々疎かになってます。
とはいえ、プリキュア考察記事もちゃんと随時更新していきますのでよろしくお願いします。
さて、今回は『メンヘラちゃん』の作者・琴葉とこ先生の最新作『透明のココロ』(秋田書店)を読んだので、その感想やらなんやらをつらつら書いていきたいと思います。割と主観的な内容になるかもしれません。
なぜ『透明のココロ』かというと、実は作者の琴葉とこ先生とちょっとしたお知り合いでして、新刊発売前に飲む機会があったのですが、その折に「次回作はドロドロしてますよー。スクールカーストとかも描いたので」と仰っていたので、社会学に興味がある身として、何かしらの知見を得ることができるかもしれないと期待して講読したわけです(サイン本で買ったあたり、我ながらちゃっかりしてると思いますが)。
この後で各話の感想を書いていくに当たって、先に総評を述べようと思うわけですが、実のところ、今、下の記事をある程度書き進めてから戻ってきて書き直しています。というのも、最初の印象では「これはほとんどただの2chまとめサイト的な『大学生あるある』漫画だ」と結論づけていたんですが、それぞれの話を深く掘り下げていくにあたって色々と示唆的な内容が見えてきたからです。典型的な「木を見て森を見ず」ってやつですね。お恥ずかしい。なので、改めて「大学生あるあるを描きつつ、少しずらした視点も導入したりする」漫画という位置づけにしようと思います。
とはいえ、全面的な肯定に転じようとするつもりもありません。最初に感じた違和感や物足りなさについてもしっかり言及していく所存です。
一応簡単なあらすじは付けますが、「百聞は一見に如かず」ということで、僕の感想が妥当であるかどうか気になる人は、実際にお手にとって読んでみることをオススメします。また、書籍だけではなく「Champion タップ!」でも読むことができます。1話、3話は今のところ試し読みができるようです。よろしければ別タブで開いた上でこちらの記事をお読みください。
キーワード:ご都合主義、コミュ力、ニンフォマニア、恋愛街道、ルサンチマン、セックスの相対化、大衆迎合主義、脱構築ー再構築
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第3回:プリキュア=精神科医!?姫プリにおける「夢」とは?
はじめに
ごきげんよう。なでかたジョンです。
読者の方からのコメントを頂いたことによって、4本もプリプリの話題でもってます。
しかし、改めて前回のコメント反映の記事を読み直すに当たって、若干本来の目的を見失っている感があったので、この記事で初めてここを訪れる人のためにも、改めてこのブログにおける作品批評のスタンスを確認しておきます。それは、
「作品の設定・世界観に反映される、大人たちの思想・価値観を問題にする」
つまり、設定・世界観にどういう意味があるのかを考える。
(裏テーマとして、「今まで『子供向けだから』と許容してきたことを問い直す」)
(たとえば、こういう「自己犠牲の精神」を描くことが子どもたちにどのような意味を持つか。)
というものです。そしてその目的は、
「キャラクターが何故そのように行動しなければいけないのか」
「なぜそのようなストーリー展開にならざるを得ないのか」
という作品のシステム上の制約を把握することで、キャラクター・作品双方への理解、そして愛を深めること。
(決して「悪」だと決めつけない。「問題児ほど可愛い」ようなもの)
※こういうスタンスで議論を進めていくので、「あくまでも娯楽としてプリキュアを楽しみたい」という方は「ふーん、まあそういう考えもあるかもね」程度に思っていただいて構いません。また、こうした議論は「プリプリが面白い」ことを何ら否定するものではありません。
(第2話お気に入りのシーン。言うまでもなく、プリキュアは今作も面白いです)
いやしかし、キャッチーなタイトルに誘われて足を運んだのに前置きが長いなんてことになったら、詐欺呼ばわりされかねません。事務手続きは手短に済ませて、本題へ入っていきましょう。
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前回までの流れ
さて、どういう文脈だったかというと、「どうなるGO!プリンセスプリキュア」に対する読者の方からのコメントに答えていく中で、一つだけ保留にしたことがありました。
それは、
「夢」というテーマ設定が適切か否か
という問題でしたね。
で、僕の結論としては、
テーマそのものが不適切であるとは言えないが、「夢」を語る上で重要なポイントが今後も描かれないのだとしたら、それは不適切である
というものであるわけです。「夢」を語る上で重要なポイントとは、
・一度夢を諦めてしまっても、違う道で新しい夢を追い求めることができるのか
・夢を叶える方法はただ一通りだけなのか
という二点だと考えています。
では、以下に僕が批判する必要性を感じる理由として、「夢」というテーマ設定が抱える問題を見ていきましょう。それは、今作に対して我々視聴者がなんとなく抱く不自然さに対する感覚を説明するものになりうると考えます。僕がこの議論でやろうとすることの大体の流れはこんな感じです。
これからの流れ
①現代において、皆がただ一つの方法で夢を追い求めようとするのは無理がある…将来に対する見通し、社会制度の面で
⇒②現段階で今作はそうした事実に配慮できていない
…(a)モブキャラの側、(b)プリキュアの側の両方で、ドロップアウトした人への救済、夢を実現する方法の多様性が描かれていない
⇒③こうしたことを認識した上で、キャラクター・作品の成長を見守るとともに、我々も同じテーマについて自分なりに考えていこう
更に、「で、結局君は何がやりたいの?」という問いには、
いままで何となく見過ごされてきた違和感を、ちゃんと言葉にして考え、その上で作品とどう向き合っていくか考えていこう。
という建設的な提案であると答えます。
では、実際の議論に入っていくとしましょう。
キーワード:排除と包摂(≒挫折と救済)、誠実さ、プリキュアの存在意義、承認、「所詮子供向け」
続きを読む第2回に対するコメント反映
ごきげんよう、なでかたジョンです。
お姉さまに曲がったタイを直してもらうためには、まずタイをしなければならないと気づいて愕然とする毎日です。
さて、前回の「どうなるGO!プリンセスプリキュア」ですが、そこそこの手応えがあったように思います。Twitterで感想を下さった方もいて、嬉しい限りです。今後も皆様が楽しめるような記事を書いていきたいと思った次第であります。
しかし、同時に物足りなさも感じていました。閲覧数の問題ではありません。
反論が来ないんです
まあ結局は限られた人(多くは知り合い)しか読んでいないということも関係しているでしょう。ネット上でのやりとりが中心のデリケートな関係において、相手の議論の矛盾を論(あげつら)う態度は、ある種「コミュ障」かもしれません。
ですが、議論の正しさを重視する者ならば、批判こそすべてではないでしょうか。
議論好きの人間はみな批判されたがっていると言ってもあながち間違いではないでしょう。
けれども厳然たる事実として、僕のもとには「語彙が難しくて読みづらかった」とか「議論が難解で読みづらかった」というもの以外の批判が来なかった。勿論こうした批判それ自体は真摯に受け止めて改善していく所存ですが、議論そのものについての批判がなかったことはとても残念でした。
第1稿の時点で議論が完成されていることが極めて例外的である以上、それは(主に第三者によって)乗り越えられるべきものです。なので、仕方なく自分で補強していこうと決意しつつあった、その矢先でした。
コメントが来たのです
急いで内容を確認すると、僕の記事に負けない長文。しかも内容は多分に批判的です(且つ文体には誠意が見て取れました)。もうね、小躍りしましたよね。
改めて言いますが、これは非常にありがたいことです。持論は批判を受けて補強されていくのです。どちらにお住いかわかりませんが、これ以降は足を向けて寝られません。北関東在住でないことを祈ります。(北関東的な色使い)
さて、このように誠意のある批判を受けたからには、こちらとしても誠意を持ってそれに答えるべきです。以下に批判の要点と、それに対する僕の見解の要点をまとめておきます。これで「ふぅん」と満足なさった方には、これ以上の議論は必要ないと思われますので、星をつけたり読者になったりして頂いた後でブラウザバックなり何なりして頂いて構いません。それ以外の「どういうこっちゃ」とか「コイツは果たして私の思考レベルに到達しているかな」という感想を抱いた方は、続きをお読みください。興味はあるけど全部読むのは面倒という方は、差し当たって③⑤⑥あたりが重要かと思われるので、そこだけ読んでいただいても構いません(その上で星をつけたり読者になったりしてください)。
①文章が読みづらい
⇒頑張ります!
②姫コスってだけで「時代の潮流に逆行」?
⇒服装自体ではなく、その背後にある「意味」の問題です。
③「時代の潮流に対する逆行」、「旧時代的な女性像の再生産を強要すること」が何故いけないの?
⇒(「いけない」というか問題があるのは)それが差別を助長する論理に結びつくからです。
⇒それは、幼児期において「誰が」「どのようにして」性の多様性の他の諸側面を教えるのか、ということが明確になってからの話です。
⑤プリプリは異性愛以外の価値観を否定してるわけじゃないし、看過すべきでは?
⇒子どもが第一に模範とするプリキュア達の行動が、商業主義的な印象操作に利用されていることを考えると、僕はそう楽観視もできないと思います。
⑥じゃあ「夢を諦めろ!」って言えばいいの・・・?
⇒要するに「夢の伝え方の問題」です。今作では、最悪の場合、「プリンセス願望(=アイドル願望)」が子どもに刷り込まれることになり得ます。
⑦「夢」っていうテーマはやっぱ良いと思う
⇒僕は「プリンセス」というモチーフ以上に問題だと思います。下手したら、プリキュアの存在理由さえ脅かすものです。それは、一つには作中におけるモブキャラの夢の描かれ方、もう一つには現代社会のシステムが「夢を追う」のに十分な救済措置を完備していないことが理由としてあります。(これは予告編です。ちゃんと書こうとしたら余りにも長くなりそうだったので、記事を分けることに致します。しばしお待ちを。)
続きを読む第2回:どうなるGo!プリンセスプリキュア(後半)
皆さんごきげんよう。なでかたジョンです。
連続2回でお送りする「どうなるGo!プリンセスプリキュア」、後半戦でございます。
いよいよ、本題であるところの「プリプリの設定、世界観の何が雑なのか」という話に入っていきたいと思います。
この段階で「うっ」と拒否反応を示した方、大丈夫です。僕はあなたの敵ではありません。なので、まずは第1回の内容に目を通してみてください。
念のため僕がこのテーマについて語る上でのスタンスについてもう一度触れておくと、「作品の設定・世界観に反映される、大人たちの思想・価値観を問題にする」というものでした。
この点をご理解の上で読み進めていただかないと、「お前のやってることは単なる揚げ足取りじゃないか」という無意味な不快感を味わうことになってしまうので、改めてご確認をお願い致します。(僕のスタンスを理解した上で、根拠を提示して「結局お前もただの揚げ足取りだよ」ということを指摘なさる分には一向に構いません。これから話すことが杞憂だったら、と僕自身半ば思っているくらいですから)
さぁまたしても前置きが長くなってきたぞ。いい加減本題に入らないと設定したテーマに対して不誠実というものですね。それでは参りましょう。あ、今回アホみたいに長いけど、げんなりしないでね。(フラグ回収)
さて、差し当たって僕が疑問に思う点は、大きく3つに分かれます。それは、
①キャラデザ、モチーフについて
②主人公の夢&実現する手段と、プリキュアとして戦うこととの関係性について
③この世界観の中で描かれている対立項について
だと言えます。この時点で「あぁ、わかる気がする」と思う方もいれば、「全然わからんちん」という人もいるでしょう。いかんせん長いので、ピンと来ないテーマだけざっと眺めるのもアリかと思います。取り敢えず後者の方のために一つ一つ説明していきたいと思います。
(途中、わからないことがあれば、質問に対しては誠実に答えるつもりです。ブログ内のコメントにどれほどの早さで対応できるかわからないので、Twitter(@Nadekata_John)の方に振ってもらっても構いません)
続きを読む第1回:どうなるGo!プリンセスプリキュア(前半)
はじめまして、なでかたジョンと申します。
基本的には中国語学専攻の大学生をやりながら、漫画を描いたり踊ってみたりする者です。
また、最近では書店でバイトを始めたこともあって、色々本を読んでいます。
というわけで、このブログでは、中国語の話や、読んだ本に関わる話、アニメの話が中心になるかと思います。
肩肘を張らずに、しかし有意義な話ができればいいなーと思っています。よろしくお願いしますm(_ _)m
どうなるGo!プリンセスプリキュア
さて、その記念すべき第1回は、今月から始まったプリキュア新シリーズ「Go!プリンセスプリキュア(以下プリプリ)」についてお話しようかと思います。
そもそもこのブログを作るきっかけというのが、某ブログにてプリプリ(ダイヤモンドとは関係ない方)についての自分の考えをダーッと書き連ねたら「うるせぇ他所でやれ」と(言外に)言われたことだったので、このテーマ設定は必然と言えます。
また、このような経緯があったため、本題の記事は殆どできているわけです。
では、プリプリの何について話すかというと、「テーマ設定、世界観の設定、雑じゃね?」ということについてです。
…今、「またその手の話か」と感じた方はそっと挙手をお願いします。
お気持はよ~くわかります。まだ第2話までしか放映されていない時点でそんなことを議論しても仕方ないだろう、と。どうせ後々になって熱い手のひら返しをするんだろう、と。
確かに、アニメ作品に対する批判には、その時のイメージでなんとなくおかしそうなところを論(あげつら)って批判した気分に浸るようなものが多々あります。それは建設的な批判ではなく、イチャモンに近いです。喧嘩の火種にしかなりません。
しかし、だからこそ、僕はそういうスタンスとは距離を置くことを強調したいのです。ではどういうスタンスで批評するのか。
そもそもまず、子供向けの作品を批評する上での困難さを知る必要があります。
それは、メインターゲット層が認識能力の低い児童であるが故に、①整合性の矛盾について、一部看過せざるを得ないということと、②教育的価値の名のもとに、ある種の矛盾が正当化される場合があるということです。
そのことを理解した上で僕がどのような立場で子供向け作品を批評するか。それは、
作品の設定・世界観に反映される、大人たちの思想・価値観を問題にする
という立場です。ここでは、瑣末な非常識性や矛盾(例えば、「中学生にもなって『童話のお姫様』とかwww」のような点)は問題にしません。
問題になるのは、「そうした設定・世界観を設けたことで、大人たちは何を表現し、何を伝えたいのか」ということになります。言い方を変えれば、「記号的意味」のレベルでの批評を試みるということです。(この方法論自体の目新しさは、特にありません)
これによって、アニメ批判にありがちな揚げ足取りを脱することができると考えますし、キャラクターが動く世界のシステムや、作品に込められた教育的なメッセージを問う事によって、より一層キャラクターへの愛、作品への愛が深まるのではないでしょうか。
また、第2話までしか放映されていないから批評を語るには早過ぎるという反論があると思いますが、僕はむしろ第1話の時点でこの記事を書いても良かったとさえ思います。
というのも、長いスパンで展開するアニメは、基本的に物語の序盤に核を持ってくるからです。そうしないと、観る側も作る側も方針を定めにくいわけです。
というわけで、僕はこのテーマについて語ることで、プリプリを鑑賞する上での方針を提示するとともに、メタ的な意味でのキャラクターの境遇、またプリキュアシリーズの行く末を考える契機を生み出せれば、などと考えているわけです。
…さて、ではようやくこれから本題に入ろうと思うわけですが、皆さんここまで目を通した時点できっとお疲れのことでしょう。僕もこの導入に関してはほぼ書き下ろし(もともと余り字数を割いていなかったという意味で)だったので疲れました。
なので、このお話は前後半に分けようと思います。一つの記事がアホみたいに長いとげんなりしちゃいますよね。(この言葉を覚えておいてください)
しかし、女児アニメというジャンルは、それを嗜好する大人の存在がそもそも社会的に受け入れられにくいということもあって、同じアニメファンの中でも槍玉に挙げられることが多かったように思います(被害妄想でしょうか)。それ故、女児アニメファンは、自らの嗜好対象についての批判的な言説に対して過敏な拒絶反応を示します。
そういう事情もあって、自らのブログという開かれた場で発言するにあたっては、まずこれから述べることが「プリキュアの面白さ自体を否定するものではない」ということについて、誠実に説明する必要があると考えた次第です。実際アニメ2話、良かったですよ。生徒会長がはるかを手当するシーンとか、瞬間最大風速来てました。
ただし、個々のストーリと全体のシステムでは次元が異なっているという問題もあるのです。そこが伝わればとても嬉しいです。
さぁ、これからする話もまた長いので、僕も含め、皆さん一旦小休止を取りましょう。では、後ほど。ごきげんよう。
( ´・ω・)つ旦